「給与レンジ」を適切に設計。採用力や定着率を高める効果も
近年、情報を公開する企業も増えてきた「給与レンジ」。その内容によっては採用や定着にも大きな影響を及ぼす項目です。
今回は、関西エアポート株式会社でHRBPを務める堀口 修吾さんに、「給与レンジ」の概要・考え方から設計方法・見直すタイミングに至るまでお話を伺いました。
<プロフィール>
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堀口 修吾(ほりぐち しゅうご)/関西エアポート株式会社 HRBP
ジェイエイシーリクルートメントにて両面型エージェント、レジェンダコーポレーションにて新卒・中途採用の設計と実務を経験した後、ネスレ日本にて人事制度担当者としてアジアのグローバルチームとやり取りをしながらグローバルスタンダードの制度導入や年金制度改定、等級制度、給与制度改定を対応。その後、アルムナイコミュニティのプラットフォームを提供するハッカズークにて、多くの企業のアルムナイコミュニティの立ち上げと運営を実施。現在は関西エアポートのHRBPとしてグループ会社を含めた複数の組織を担当。
目次
「給与レンジ」とは
──「給与レンジ」の概要について、各企業が情報をオープンにし始めている背景も含めて教えてください。
「給与レンジ」とは、その職務に見合った基本給の上限から下限の幅のことです。ここで言う職務は等級やグレードなどと言い換えると馴染みやすいかもしれません。例えば、等級1の給与レンジは月給18万円~24万円、等級2は24万円~28万円といった形で設定します。ここでは月給で表現しましたが、年収を基準とする考え方もあります。この「給与レンジ」は業界・職種・会社によってさまざまに設定されています。「給与レンジ」の考え方は職能給を含むあらゆる等級制度でよく使われていますが、今回は職務給(ジョブ型給与)の「給与レンジ」を想定してお話しします。
昨今、さまざまな意図で報酬設計が考えられるようになり、「給与レンジ」の情報を社内外に公開する企業も増えてきました。この背景には、労働市場の流動化があると考えています。近年、労働者はより条件の良い労働環境を求める動きが一層加速しています。その中で、「給与レンジ」は意思決定における重要な要素の1つです。人材の流動化が加速すればするほど、職務に応じた「給与レンジ」は1つの会社だけではなく労働市場全体で共通化されていきます。すると、会社としては貴重な人材が外部へ流出しないために労働市場で競争力のある「給与レンジ」を設計すると共に、それを公開して社員のエンゲージメントの向上や優秀な人材の採用をするために活用していく、という動きにつながります。
「給与レンジ」の考え方
──「給与レンジ」にはいくつかのパターンがあると聞きました。そのパターンと選択基準について教えてください。
「給与レンジ」を作成する際は、大きく2つのコンセプトを整理する必要があります。
1つ目は、等級などで統一した『シングルテーブル』とするか、職種や総合職・専門職などで複数設定する『マルチテーブル』とするかです。『シングルテーブル』は、シンプルな設計のため運用負荷も少なく、公開時に従業員の理解も容易に得られる傾向があります。しかし一方で、柔軟性が少なく職種ごとで外部労働市場との差が大きくなってしまう可能性があります。『マルチテーブル』は、職種や総合職・専門職などを基に設計をするため、外部労働市場を意識した柔軟な設計が可能です。一方で、運用は複雑になり、社内で職種をまたいだ異動時のルール整備なども必要になります。
2つ目は、『レンジ幅のパターン』です。レンジ幅には大きく3つのパターンがありますが、必ずしもすべてのレンジを同じルールに統一する必要はありません。しかし、社員の理解促進や透明性の観点では統一した運用が望ましいです。また、「給与レンジ」は中央値(Mid Point)を決め、中央値(Mid Point)から上下〇%、というように上限と下限を設定する方法が主流です。
(1)重複型(オーバーラップ型)
隣接する階層の給与範囲に重複が生じます。1つの階層の上限給与が次の階層の下限給与よりも高くなる形です。昇格・降格時の影響が少なくなりインパクトが小さくなるメリットがありますが、隣り合うレンジで給与の重複があるため職務給としての意味合いが弱まります。
(2)接続型(コネクテッド型)
各階層の給与範囲が明確に区切られ、階層間には重複がありません。1つの階層の上限給与と次の階層の下限給与が同額になる状態です。重複がないため、レンジ間での職務と給与のメリハリが保たれながら、昇格・降格時の影響も抑えることができます。
(3)分離型(ディスジョイント型)
隣接する階層の給与範囲には重複がなく、明確に区切られています。1つの階層の上限給与と次の階層の下限給与の間には、給与の重複がありません。隣り合うレンジで間隔があることで役割と給与のメリハリをつけることができます。一方で、降格時の運用によってはモチベーションへの影響が大きくなります。
これらの型をどのように取り入れるかはその導入・変更目的によって組み合わせが異なりますが、考え方としては以下のようなものがあります。
外部の労働市場を意識し、役割と給与のメリハリを強めたい場合
『マルチテーブル』をベースにしつつ、分離型を採用することにより、労働市場の職種ごとの給与レンジを意識した設計を行う。
これからジョブ型を導入し、時間をかけて制度を浸透させていきたい場合
『シングルテーブル』に接続型を組み合わせることで、在籍社員の給与を分析しながら、外部の「給与レンジ」との比較を行い自社の「給与レンジ」を設計する。
上記はあくまで一例であり、個社ごとに事情や目的はさまざまです。それぞれのメリットとデメリットを理解したうえで、目的に沿った考え方を心がけてください。
「給与レンジ」の設計方法
──「給与レンジ」を設計もしくは再設計をしようと考えた時に、どのようなステップで進めると良いでしょうか?
大きく以下8ステップで進めて行くことをおすすめします。
(1)新規設計・改定の目的定義
「給与レンジ」の設計・改定を行う目的を明確に定義することは何より重要です。目的は、組織の給与戦略の変更、市場動向への対応、従業員のモチベーション向上など、要因によってもさまざまです。職務給(ジョブ型など)に紐づいて考えられることが多いため、『Pay for Work』(※1)や『パフォーマンスカルチャー』(※2)などのコンセプトを軸にした設計がよく聞かれます。
(※1)Pay for Work/ペイ・フォー・ワークとは、従業員の働き(役割や職責)に対して、正当な賃金を支払う考え方のこと。年功序列ではなく職務給(ジョブ型など)の導入コンセプトとして利用されることが多いものです。
(※2)パフォーマンスカルチャーとは、組織や企業における働き方において成果に見合った報酬設定を重視するカルチャーのことです。このコンセプトの元では従業員が高いパフォーマンスを発揮し成果を上げることが期待され、成果を明確にするための評価設定が整えられます。パフォーマンスカルチャーを育てるためにはリーダーシップや組織文化の形成が重要で、従業員が自らのパフォーマンスを向上させるための環境を整えることが求められます。
(2)職務の整理
等級整備やジョブディスクリプション(職務記述書)の作成などを行う工程です。職務の整理を行うことで、各ポジションの役割や責任が明確化され、「給与レンジ」の設計に基づいた正確な評価が可能になります。
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(3)報酬の整備
「給与レンジ」の設計は、報酬体系の整備と密接に関連しています。報酬の整備には、基本給やボーナス、各種手当、福利厚生などが含まれますが、制度変更のタイミングで手当の新設や廃止などもコンセプトに沿って行うことができるとスムーズです。これらの要素を組織戦略や目標に合わせて調整し、「給与レンジ」と整合性を保つ必要があります。
方法としては、まずは自社が従業員に対してどういった名目の報酬を支払っているかを洗い出すことをお勧めします。例えば、基本給、賞与、家族手当、家賃手当、みなし残業代、地域手当、インセンティブ、業績賞与などです。次にこれらを『固定的な賃金』『属人的・個別対応の賃金』『変動的な賃金』として3つに分類します。分類する理由としては、今後の他社比較の際にトータルの年収で比較するだけでは、本質的な賃金比較ができないためです。例えば、固定的な賃金だけで500万円の会社と、固定的な賃金が300万円+変動的な賃金200万円で合計500万円では、正しい比較ではないことは皆さんもイメージがしやすいでしょう。そして、これらを見直しのタイミングで追加・廃止することで報酬体系を変更するコンセプトがより強固なものになります。
(4)市場給与の調査
職務の整理や報酬の整備が完了した段階で、市場給与の調査を行います。競合他社・同業界・職種の給与水準を把握し、市場の動向に応じて自社の「給与レンジ」を設定することが重要です。とはいえ、外部環境と比較した結果、自社の水準が低い場合に単純に外部の水準に合わせて上げるなどの対応は現実的ではありません。市場調査の目的はあくまで『自社の立ち位置を客観的に正しく把握すること』として位置づけ、一喜一憂しないように心がけてください。なお、予算の都合もあるかと思いますが、市場調査はすでに仕事のランク付けをおこなっているコンサルティング会社などの協力を得ることをお勧めします。その際、整備を行った自社の等級・ランクの位置付けを知ることで、より制度の高い調査が可能になります。その上で外部との比較を行いながら人材獲得や、自社にとって欠かせない人材が外部へ流出しないような報酬設計をどう行うかを考えます。
重要なのは『報酬=賃金』だけではない点です。働き手にとって魅力的な報酬とは賃金だけではなく、福利厚生やキャリア開発の機会、会社のビジョン、業界での位置付けなど、働く環境に与えるすべての要素(トータル・リワード※)となりますので、これらを意識して今後の報酬設計を行うのも良いでしょう。
(※)トータル・リワード(Total Reward)とは、従業員に対する報酬(=リワード)を総合的な動機付けのしくみと捉える考え方で、金銭的報酬と非金銭的報酬をバランスよく包括した報酬マネジメント体系を指します。
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(5)新たな「給与レンジ」の作成
市場調査が完了したら、新しい「給与レンジ」を作成します。新たに設計した従業員の役割や責任、市場の状況などを考慮して、適切なレンジを設計できるかがポイントです。基本的な考え方としては、前述した通り中央値(Mid Point)を決め、中央値から上下〇%のように上限と下限を設定する方法が主流です。とはいえ、既存社員の給与分布は必ずしも正規分布にはならないと想像します。
設定の方法や対応の詳細は個社ごとに事情が大きく違っているため、今回は一例を紹介します。例えば、コンサルティング会社の協力の元で自社の等級をランク付けできた場合は、そのランクでの中央値を適用し、従業員の分布に合わせて上下のパーセントを設定します。パーセントの幅は10〜20%程度に納めるケースが多いです。その際、前後の等級とのレンジ幅の関係をどうするかは前述の3つの『レンジ幅のパターン』をご参考ください。なお、上下のパーセントは必ずしも同一の数値を設定する必要はなく、下は15%で上は20%として設定することもあります。そして、今後の検証ために、自社が設定した中央値が市場の中央値を〇%以上は上回る、前後〇%内で推移する、下回るが〇%以内に収めるなどの指標を予め設定することで見直しの基準が明確になります。決め方が難しい点でもありますが、必ずすべての従業員の給与値をレンジ内に収める必要はありませんので、各レンジについて社員の給与値が最低でも7~8割以上が収まることを目安にするとよいと思います。
この時に、既存社員の給与が設定したレンジにおさまらないケースが発生することはよくあります。レンジを下回っている場合は、定期昇給などの際にレンジ内に追いつくような係数を設定します。レンジを上回っている場合は、レンジの上限まで給与を下げるようなアクションは無理に行わず、降格や異動、役職定年などの対応があった際に調整するケースが多いです。
(6)評価制度と「給与レンジ」の関連整理
新たなレンジが決まれば、評価制度との関連性を整理することも必要になります。評価制度が「給与レンジ」に基づいて公平かつ透明に行われるように、関連する基準やプロセスを調整しましょう。「給与レンジ」上では中央値(Mid Point)がその職務における適切な給与と考えるため、給与が中央値よりも低い場合は昇給率を高く設定し、中央値よりも高い場合は昇給率を低く設定する設計を取り入れることが多いです。例えば、全社の基準昇給率を3%とした場合、中央値以下の方は5%、中央値以上の人は1%などの設定です。実際にはもう少し細かく中央値から5%以上10%未満の人は〇%、10%以上の人はX%というように段階を作ることが多いです。
(7)新体系への移行
新しい「給与レンジ」の設計が完了したら、従業員や管理者に対して新しい給与体系への移行を適切にコミュニケーションし実施します。適切なトレーニングやサポートを提供して、移行プロセスを円滑に進めることが必要です。特に、「給与レンジ」を全社に公表する場合はレンジ外にいる方々への説明は非常に重要です。レンジを下回っている人からは正当な給与を受け取っていないという感情が生まれ、レンジより高い人からは降給への不安が生まれます。これらに対応するためには、それぞれについてどういった対応を会社が考えているのかを明確に説明することが望ましいです。前述した通り、レンジを下回っている場合はレンジに届くまで別途昇給を用意すること、レンジを超えている場合は昇給がどうなるのか、またどういった場合に降給があり得るのかを不当な不利益変更とならないよう文章で明確に提示することをお勧めします。
(8)検証と改善
「給与レンジ」は導入して終わりではありません。毎年検証し、必要に応じて見直し・改善を行うことが欠かせないからです。「給与レンジ」が組織目標や市場変化に対応できているかどうかを都度評価し、必要に応じて調整を行いましょう。前述した通り、理想としては自社が設定した中央値(Mid Point)が市場の中央値を〇%以上は上回る、前後〇%内で推移する、下回るが〇%以内に収めるなどの指標を予め設定されており、これを基準とすることで検証が実行します。ただし、自社の財務状況や外部環境から当初決めた基準を見直すことも並行して行うことを忘れないようにしてください。
また、物価上昇や政策による大幅な賃上げ圧力、従業員からの賃上げ要望に対応するため昇給率を高く設定した場合、当初設定してた「給与レンジ」では多くの従業員が中央値やレンジを上回ってしまうなどの状況でも見直しを行いながら全体のバランスを整える必要が出てきます。
「給与レンジ」を見直すタイミング
──先ほど「給与レンジ」は見直しが重要だと伺いましたが、どういったタイミングで行うのが適切でしょうか。
見直しのタイミングはいくつかありますが、代表的なものを3つほど紹介します。
(1)市場の変化
競合他社や同業界の給与水準が変化した場合、「給与レンジ」もそれに応じて見直す必要があります。市場調査を定期的に実施して市場動向を把握しながら、自社の設定している「給与レンジ」と比較することが重要です。他社や業界の動きだけでなく、大幅な物価上昇や政策の影響を受けた賃金上昇にも注意が必要です。なお、他社の「給与レンジ」は公開されていないことが多いです。そのため、コンサルティング会社や人材サービス企業からの情報を得ることや、厚労省、経団連、民間企業や独立行政法人などが発表している統計データから動向を読み取ることをお勧めします。
(2) 組織の変化
組織が成長したり変化したりする場合、従業員の役割や責任も大きく変わります。このような場合、「給与レンジ」を見直して新しい役割や責任に適した給与水準を確保する必要があります。
(3)人材の獲得と保持
競争力のある給与水準を意識的に維持することは、優秀な人材を確保(組織の競争力維持)する上でも重要な戦略になります。(1)の市場の変化と合わせて、採用力と定着率にも注視しながら見直しタイミングを検討していくと良いでしょう。
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また、ここまでの内容は定期的に検証していくものですが、制度設計自体を見直す際には状況にあわせた対応が必要です。多くの場合、職務級(ジョブ型など)の導入に伴って「給与レンジ」を設計すると思います。例えば、「給与レンジ」を重複型から接続型、もしくは分離型に変更するケースです。この場合は市場調査はあまり必要とせず、報酬制度のコンセプトを議論の軸とし、社内での調整が主な動きとなります。
また、レンジテーブルの数を増やす(もしくは減らす)変更も発生するケースがあります。これは会社としての意思決定の場合もあれば、従業員からの要望がある場合もあります。また、より柔軟な設計を意図して増やすこともあれば、シンプルな運用や社内での不公平(職種による差異)の緩和を目的として減らすこともあります。これらは運用を行いながら適宜対応することになりますが、導入当初の目的や会社の状況と照らし合わせながら丁寧に設計を行う必要があることには変わりありません。
編集後記
優秀な人材の取り合いが加速する環境下では、「給与レンジ」に関しても市場や競合の動きを踏まえて検討・設計を行う必要があります。いろんな目的や要素が複雑に絡み合ってくる領域のため、何から手を付けて良いか迷うこともあるかもしれません。そんなときは、この記事にもある設計方法・ステップなども参考にしてもらえると嬉しいです。