「デジタル給与」が解禁。メリット・デメリットから国内動向まで解説。
2023年4月に解禁された「デジタル給与」。厚生労働省による指定資金移動業者の審査待ちのため2023年6月時点ではまだ具体的な利用開始日が公表されていませんが、注目度の高い取り組みであることは間違いないでしょう。
今回は、戦略人事・労務・業務改善経験を豊富に持つ范 凱翔さんに、「デジタル給与」の概要からメリット・デメリット、未来予測に至るまでお話を伺いました。
<プロフィール>
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范 凱翔(はん がいしょう)/ユカハン合同会社 Founder、CEO
京都大学卒業後、人事業務支援/BPOサービス事業マネージャーとして中小企業・ベンチャー企業の人事労務業務全般に携わる。IT企業での人事企画、ホテル運営企業での事業開発を経て、メルカリにて労務企画として働き方制度の企画や子会社設立を担当。自身の会社ではパートナーとともに人事やバックオフィス全般、マーケティング等の支援に従事。家を持たずに日本全国を旅しているノマドワーカー。
目次
「デジタル給与」とは
──注目が集まる「デジタル給与」の概要について、厚生労働省が発表している内容や世間の期待値なども含めて教えてください。
「デジタル給与」は、その名の通り電子マネーによって給与を支払う制度のことです。厚生労働省が2022年11月に「デジタル給与」導入に関する労働基準法の改正省令を公布し、2023年4月に施行されました。現状は資金移動業者を指定するための申請受付・審査中であり、国内では導入企業はまだありません。
資金移動業者とは、銀行業務の中でも為替業務許可を持った業者を指します。銀行と比べてビジネス的な規制が少なく新規参入も容易なため、ポイント還元が豊富であったり他の自社サービスとの連携があることが特徴です。
PayPay社がQR決済に参入し、ポイント還元と加盟店手数料ゼロ(現在は有料化)を武器に一気に拡大したことは皆さんも知るところだと思いますが、分かりやすい事例のひとつと言えるでしょう。QR決済で集めたユーザー数・eKYC(electronic Know Your Customerの略。オンライン本人確認のこと)数・技術力をフルに活かして銀行や証券、住宅ローンなどの各種金融サービスに進出し、今ではショッピングやフリーマーケットアプリ、トラベル領域などにも連携しています。
キャッシュレス化が進んだ現代では、受け取った給与を現金として見ることは少なくなりました。現金化されないまま口座から各種支払いを行うことが一般化し、デジタル上の数字のやり取りがメインになりつつあります。そう考えると、「デジタル給与」が導入されても不便だと感じるシーンは限定的であり、労働者本人が同意すれば禁止する理由はないだろうというのが今回の解禁趣旨だと考えています。
一方、さまざまな不安の声もある通り、資金移動業者に対する信頼性・普及性はまだまだ銀行には及びません。と言うより、ここまで銀行の社会的地位が高い国は世界を見渡してみても少ないのが実態です。そもそも日本のように銀行口座が普及していない国の方が多く、世界中でテクノロジーを活用して多様な金融サービスが生まれている中で残念ながら日本が取り残されているという見方もできます。今回の「デジタル給与」解禁によって給与という200兆円以上(※)にものぼる巨大マネーがフィンテック企業へと流れることで、一層のテクノロジーや社会システムの発展が見込まれています。なお、実際の制度内容については厚生労働省が発行した「デジタル給与」に関するリーフレットで分かりやすく説明されていますので、こちらも合わせてご覧ください。
(※)参考:国税庁「令和3年分 民間給与実態統計調査」によると事業所が支払った給与の総額は225兆円とのこと。
「デジタル給与」のメリット・デメリット
──「デジタル給与」導入により、企業と従業員それぞれにどのようなメリット・デメリットがあるのでしょうか?
企業と従業員両方
導入方法次第では従業員満足度を向上させられるメリットが考えられます。想定されるデジタル払い方法としては以下2つです。
(1)現給与に上乗せする形でデジタル支払いする方法(福利厚生やインセンティブとして)
(2)現給与の受け取り比率を変える方法(手取り30万円のうち2万円をデジタル払いで受け取るなど)
まず(1)の場合は、実質給与がアップする形になるため明確に従業員満足度が向上します。具体的な方法としては、単に完全な上乗せとしてデジタル払いを行うことはもちろん、カフェテリアプラン(※)の1つとして追加支給を行うこともできるでしょう。ただしながら、目に見えるお金以外での『隠れ給与』の支給はエンゲージメント向上効果としては比較的弱く、慣れてしまうとありがたみが薄れ、既得権益化する恐れもある点がデメリットです。
(※)カフェテリアプランとは、従業員に一定額の補助金(ポイント)を支給して、その支給されたポイントの範囲内で用意された福利厚生メニューを選択・利用できる福利厚生の運営形態の1つ。
(2)の場合は、一見受け取り方が変わるだけに見えますが、資金移動業者が「デジタル給与」解禁に合わせて行うポイント還元キャンペーンなどによって従業員が利益を得られる可能性があります。また、資金移動業者は複合的なサービス・プロダクトを展開していることが多いものです。資金移動事業者が自社経由でデジタル払いしてもらうために、関連サービスの優待を条件にすることも十分に考えられます。結果的に資金移動業者が企業・従業員の双方にメリットのあるサービスを行っていくことで実質賃金が向上し、従業員満足度も向上させられる可能性が出てきます。
企業
「デジタル給与」解禁時から他社に先駆けて導入することにより、先進的な取り組みを行っている会社としてブランディングにつなげられる可能性があります。結果的に採用などにも良い影響があるでしょう。ただ、こうした効果があるのはあくまで普及期だけの話です。広く普及してしまえば、その目新しさはなくなり各種効果は期待できなくなります。また、一度「デジタル給与」を導入してしまえば辞めることは非常に困難です。安易に飛びつかず、導入においては目的と得たい効果、どの資金移動業者にするかについては慎重に検討した方が良いでしょう。
一方で、現状では銀行振込との併用が現実的なことから、その運用コストの大きさがデメリットとなります。銀行振込数は減らないので手数料も減らず、そのままでは金銭的にメリットはありません。加えて、導入時の社内説明、毎月の運用、従業員からの問い合わせ対応など、マンパワーや工数を含めた追加コストが大きくかかってきます。イベントや季節業務等で期間限定のアルバイトや、単発業務の報酬を給与として払うことがある業種の場合は手数料や手間などのコスト減にはなると思いますし、日払いのような勤務から支払いを早める仕組みができるとアルバイト採用の面では大きな強みになってくるかと思います。
従業員
現状の制度では従業員側が選択できる形になっているため、特段デメリットと言えるものはありません。強いて言えば、家計管理が複雑化するという点などでしょうか。なお、メリットに関しては先ほど紹介した通りです。
『資金移動業者が倒産したら預けていた給与がなくなるのでは?』と心配される方も少なくありませんが、資金移動業者は銀行に準ずる形で資金保全や管理体制などを金融庁から厳しく指導されていますし、「デジタル給与」を扱える指定業者になるにはさらなるハードルがありますので、そこまで心配する必要はなさそうです。また、預け入れ額の上限も100万円と規制されている上、破綻時には保証期間が弁済することになっていますので、預けていた資産がなくなる可能性は非常に低いと考えられます。
「デジタル給与」導入時のポイント
──「デジタル給与」を導入検討する上で留意するべき点や、進め方のポイントについて教えてください。
第一に、導入目的や得たい効果について、経営陣含めて明確にしておく必要があります。制度修正や同意の取り直しは非常に時間と手間がかかるため、目的や予算(事務の手間も含め)はもちろん、効果測定方法についても事前にしっかりと固めておくことを推奨します。その上で、以下のような基本ポイントを関係者が抑えた上で導入検討を進めて行くと良いでしょう。
基本ポイント
・「デジタル給与」導入にあたっては労働組合または従業員代表と労使協定が必要(締結のみで届け出は不要)。
・就業規則や個々の雇用契約書フォーマットも変更する必要がある。
・実際の送金には個々の同意が必要。拒否する場合は強制できず、強制した場合は労働基準法違反となり罰則対象となる。また、従業員は同意したものを取り下げることも可能。
・給与全体のうち、いくらをデジタルで受け取るかも個々の要望に応える必要がある。金額変更についても柔軟な対応が必要。
・あくまで支払い方の選択肢であるため、課税などの給与計算は必要。手取り(差引支給額)を計算後に定額を「デジタル給与」で支払い、残金を銀行口座振込とするのが現実的。
・資金移動業者の口座にためられる金額は100万円まで。
「デジタル給与」導入にあたっては、規定等の改定に加え、銀行振り込み時よりも多くの同意や各種設定をしてもらう必要があります。加えて、送金口座情報の取得・管理、給与計算システムの改修、個別送金額の連携、資金移動業者への会社送金方法などの調整、さらには課税や100万円ルールなどの説明・理解も欠かせません。また、導入当初は事務ミスによる誤送金なども考えられるため、その対処方法についても想定しておく必要があります。人事担当者だけで検討・導入を進めるのではなく、経理担当者とも密に連携を取りながら、業務プロセスや会計にも理解のある外部プロフェッショナルの力をうまく使うことがポイントになるでしょう。
なお、現状はまだ全体動向が見えないため、試験的に導入するところからスタートする会社も多いはずです。以下に試験導入時のポイントも記載しておきます。
試験導入のポイント
・不安を覚える従業員がいることも想定し、試験導入であることを明示した上で適用範囲を限定した労使協定を締結する(一部の部署のみ・希望者のみなど)。
・就業規則の改定は最小限とし、適用範囲、個別同意、同意取り下げ、金額変更プロセスなどについては労使協定や社内ルールブックなどに記載する。
・「デジタル給与」受取口座情報の取得、選択額の変更、業者口座への送金、個々への送金の手続きなどの事務コストに関しても試験導入のレビュー対象とする。
・試験導入への協力に対して少額のインセンティブを検討する(「デジタル給与」支払いを選択した額の10%を手当として追加支給など)
「デジタル給与」の導入事例と未来予想
──「デジタル給与」はまだ国内では導入企業がないとのことですが、海外ではどのような事例があるのでしょうか。また、国内において今後「デジタル給与」が導入された後の変化について、見解を教えてください。
海外における「デジタル給与」の事例としてよく持ち出されるものに、アメリカの『ペイロールカード』があります。これは銀行口座の代わりにこのカードを通じて給与を送金してもらい、ATMで現金として引き出したり、そのカードで直接買いものをしたりできる仕組みのことです。ただし冒頭でも触れた通り、アメリカでは銀行口座を作る条件が日本より厳しいため、銀行口座を作れない層に向けた制度でもあるため、日本における「デジタル給与」とは同じように捉えられないと考えた方が良いでしょう。
国内の動向については、PayPay、楽天Edyなどが指定業者として申請したことを発表しています。長くとも数か月後には指定される見込みのため、水面下で準備を進めていた大手企業が指定を皮切りに導入発表を行うはずです。中でもグループ内に資金移動業者を有し、すでに情報を得て進めているソフトバンクや楽天などの導入が初動となると考えています。
一方で、事務コスト負担率が大きい中小企業にとっては「デジタル給与」の導入ハードルは高く、落ち着くまでは大企業やITスタートアップが先行すると思われます。それらの企業は大きなキャンペーン打つなどの戦略を取る可能性もあり、QRコード決済を日本で定着させたようにデジタル払いの普及にも一役買ってくれるのではないかと期待しています。
また、送金手数料の低さや他システムとの連携自由度の高さから、企業によってさまざまな活用方法が出てくることにも期待しています。『もしかするとこんな使い方がされるかも』『世の中がこう変わるかも』という想定をいくつか挙げてみます。
想定される使われ方
・現在の給与制度のまま、支払いの一部を「デジタル給与」にすることを選べる。
・福利厚生/カフェテリアプランとして「デジタル給与」が選択可能になる。
・臨時のボーナス(いわゆる大入り袋など)や決算賞与が「デジタル給与」で行われる。
・勤怠システムやワークフローシステムが「デジタル給与」のシステムと連携し、支払いが自動化する
変わるかもしれないもの
・「デジタル給与」を選択すると決済時のポイント還元率が上がる。
・住宅ローン返済、家賃支払、カード支払、水道料金といったこれまで銀行振込/引き落としが当たり前の支出が、デジタル払いを受け付けるようになる。
・給与が月1回ではなく、正社員であっても週払いや日払いで受け取れるようになる(自身で申請したらその額が自動で入金されるような都度払いも考えられる)。
・出来高払いの職種で歩合分が即支払われるようになる(タクシーで運賃支払いがあったら、歩合分が即「デジタル給与」で自動的にドライバーに振り込まれるなど)。
・勤怠システムと連携し、残業時間が承認されると翌日に残業代が支払われる。
・申請した通勤手当が承認されたら、システムと連携して自動で支払われる
・日々の売上や販売数、株価に応じたインセンティブ制度が生まれ、自動で支払われる。
・経理担当者以外の管理職も限定的な送金権限を持ち、柔軟な部内表彰や報奨金制度が可能になる。
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編集後記
2023年6月時点ではまだ導入企業がない「デジタル給与」。しかし、数か月には導入を発表する企業が出始め、その運用方法などがセンセーショナルに取り上げられることも徐々に増えていくでしょう。また、その活用方法も范さんがイメージされているように多岐に渡る可能性があります。導入は慎重に検討する必要はありそうですが、その可能性については今のうちからイメージを膨らませておくと良さそうです。