「レンジレート/シングルレート」の違いとは? 人事が押さえるべき給与レンジ設計の実務ポイント
一般的に能力・経験・年齢・役割・職務などによって決定される基本給ですが、何を重視するかは会社の考え方やポリシーによっても異なります。また、その基本給に幅を持たせるか持たせないかも会社によってさまざまで、「レンジレート/シングルレート」と呼ばれる設定方法がそれにあたります。
今回は、人事制度設計や組織改革などの豊富な経験を持つ横川 弘隆さんに、「レンジレート/シングルレート」の概要・違いから導入・運用におけるポイントに至るまでお話を伺いました。
<プロフィール>
横川 弘隆
事業会社で管理職を経験後、IT企業や経営コンサルティングファームにて人事制度設計や組織改革に従事。株式会社タイミーでは、人的資本経営の全社構築と開示基盤づくり、タレントマネジメントシステム導入を主導し、経営と人事をつなぐ実践モデルを確立。現在は株式会社リコーでHRISとして横断アジェンダに取り組むほか、コンサルタントとして、人事制度構築をはじめ、人的資本戦略やHRプロダクト開発支援、タレントマネジメントシステム導入を含む複数企業での要件定義から導入支援に携わっている。▶このパラレルワーカーへのご相談はこちら
目次
「レンジレート/シングルレート」とは
──「レンジレート/シングルレート」の基本的な仕組みと考え方について、それぞれの使い分け方や位置付けも踏まえて教えてください。
「レンジレート/シングルレート」とは、従業員の処遇をどの程度柔軟に設計するかを分ける代表的な手法のことです。
「レンジレート」は、等級や職務ごとに下限〜上限の幅を設け、その範囲で個人のスキル・経験・成果に応じて給与を決める仕組みです。例えば、等級3に属する従業員の年収を400万円〜600万円と設定することで、入社直後の従業員は下限に近い水準、実績を積んだ従業員は上限に近づけるといった運用を行うことが可能になります。市場価値に合わせて報酬を調整する外資系コンサルティングやIT企業では、この方式が一般的です。ただし、レンジ幅や昇給ルールが曖昧だと『なぜ自分は上限に近づけないのか』といった不満が生じやすく、公平性や説明責任の観点が課題になりやすい側面があります。
一方、「シングルレート」は等級や職務ごとに『一律の給与額』を定める方式です。例えば、課長職=年収700万円と設定した場合、同じ課長職であれば誰もが同じ額を受け取ります。これは官公庁や教育機関など組織の透明性や公平性を重視する領域でよく用いられる形です。シンプルでわかりやすく制度運用の負担も小さい一方、成果やスキル差を反映しにくいため、優秀な従業員が『頑張っても給与が変わらない』と感じて離職につながるリスクがあります。
なお、欧米企業ではジョブ型人事制度の普及に伴い職務価値(Job Value)を基準に給与を設計する「レンジレート」型が主流です。
具体的には、職務評価(Job Evaluation)に基づきジョブグレードを定義し、それぞれのグレードに下限・中央値・上限を設定する形で運用しています。同じ職務であっても経験や成果に応じてレンジ内で給与を変動させる設計が一般的であるとされています。
ただし、「レンジレート/シングルレート」の両者は公平性と柔軟性のトレードオフとなる制度であるため、どちらが優れているという類いのものではありません。どちらを採用すべきかは企業の成長フェーズ・職種特性・評価制度の考え方・組織文化など、複合的な要因によって決まるものです。
「レンジレート/シングルレート」のメリット・デメリット
──「レンジレート/シングルレート」のそれぞれを導入することによるメリット・デメリットにはどのようなものがありますか?
「レンジレート」を導入する最大のメリットは、『柔軟性の担保と市場競争力への対応』です。等級や職務にレンジを持たせることで経験や成果に応じた差別化が可能となり、優秀層のモチベーション維持や採用競争力強化に寄与することができます。
例えば、IT企業では同じシニアエンジニアでも市場水準やスキルに応じて年収800万円~1200万円の幅を設けることにより、採用市場における即戦力人材の確保や離職防止に役立てています。一方、レンジ幅や昇給基準が曖昧だと『恣意的に判断されているのでは』という不信感が生じやすく、公平性の担保が難しくなります。加えて制度自体が複雑化しやすく、マネジャーや人事の運用負荷が大きい点もデメリットです。
これに対して「シングルレート」のメリットは、『制度がシンプルで透明性が高いこと』です。例えば、官公庁や教育機関では課長職=年収700万円と一律に設定するなど、誰にとってもわかりやすいルールであることから公平性が高いため納得感を得やすく、労使交渉や制度説明も容易になります。一方で、市場相場の変化や成果差を反映しにくいため、民間企業で導入すると『頑張っても給与が上がらない』と感じた人材が流出してしまうリスクがあります。また、市場給与と乖離が広がると採用競争力を失い、優秀層を惹きつけられない可能性が出てくることもデメリットです。
両制度には一見対照的な特徴がありますが、その評価は単なるメリット・デメリットの列挙ではなく、自社の状況に照らしてどの観点を重視するかで大きく変わります。特に「柔軟性・市場対応力」「公平性・透明性」「制度運用のシンプルさ」「人材マネジメントへの影響」という4つの視点から整理すると、制度選択の論点がより明確になります。
(1) 柔軟性・市場対応力
レンジレートは、市場や採用環境の変化に対応しやすい点が特徴です。成果やスキル差を給与に反映しやすく、採用時にも幅を持たせることで優秀な人材を確保しやすくなります。一方で、レンジ幅や評価基準が曖昧だと受け取られる可能性があり、給与決定の透明性が低下しやすい点が課題となります。
これに対しシングルレートは、給与額が一定であるため安定感があり、制度運用上の判断がシンプルです。しかし、市場変動に追随しにくいため、競争力が低下しやすく、外部採用や高い専門性を求める場面では対応力が弱くなるリスクがあります。
(2) 公平性・透明性
レンジレートでは、努力や成果に応じて処遇差を設けられるため、納得感を得やすい構造になっています。ただし、昇給判断が属人的に運用されると、公平性への疑念を生みやすくなります。
シングルレートでは、全員が同額であるため制度としては極めて明快で、将来の給与予測が立てやすく安心感があります。しかし、成果差や能力差が反映されないため、「どれだけ頑張っても変わらない」という不公平感が生まれやすい点がデメリットです。
(3) 制度のシンプルさ・運用容易性
レンジレートは市場変化に合わせて制度を調整できる柔軟さがあります。一方で、制度設計が複雑になりやすく、人事や管理職の説明・運用負担は大きくなります。
対してシングルレートは制度が単純で分かりやすく、運用時の説明や労使交渉がスムーズです。ただし、単純化の代償として、組織内の多様性や個々の成長差に対して十分に対応できない可能性があります。
(4) 人材マネジメントへの影響
レンジレートは、優秀層に高い報酬水準を設定することで採用や定着に効果を発揮し、加えて成長意欲を刺激する仕組みを作りやすい設計です。ただし、運用が不適切だと逆にモチベーション低下を招きます。
一方シングルレートは、安定感を重視する組織に向いており、特に公務系や教育機関などでは離職防止に寄与するケースがあります。しかし、成果差が処遇に反映されにくいため、優秀層の流出や成長意欲の低下を招くリスクがあります。
ここまでの話を踏まえて、4つの観点から「レンジレート/シングルレート」のメリット・デメリットを整理しました。前述した通り、両制度は自社の事業環境や人材戦略に合わせて選択する類いのものであるため、これらの評価軸観点で比較することにより、それぞれの特性や違いがより立体的に理解いただけるはずです。
「レンジレート/シングルレート」の選択ポイント
──「レンジレート/シングルレート」のどちらが自社に適切かを判断する際、どんな観点で検討できると良いでしょうか?
「レンジレート/シングルレート」のいずれを選ぶべきかは前述の通り、『自社の状況にどれが適合するか』の観点で判断する必要があります。その際の代表的な検討軸として、大きく以下4つの観点があります。
(1)組織フェーズ
成長・拡大フェーズにあり、新規事業開発やDX(デジタルトランスフォーメーション)など変化が大きい環境下にある企業では、採用競争力を確保しつつ多様な人材を取り込む必要があるため、報酬制度にも柔軟性が求められます。 その点、「レンジレート」はスキルや成果に応じて報酬を可変的に設定できるため、成長ドライバーとなる人材を惹きつけやすい仕組みと言えます(例:IT企業では同じポジションでも年収800万円~1200万円と広く取ることで採用とリテンションの両立を図っているなど)。
一方で、成熟・安定フェーズの企業や公共組織など、長期雇用や年功的な文化が根強い組織では、内部公平性や制度運用効率を重視する傾向があります。こうしたケースでは、一定額の給与で推移する「シングルレート」の方が、制度運用コストを抑えながら公平性を維持でき、従業員の納得感も得やすいと言えます。
この観点での判断においては、「短期的な安定」を優先するのか、それとも「中長期の競争力強化」を優先するのかを明確にすることが重要です。また、変化への対応力と、制度としての説明可能性のバランスをどう取るかも検討のポイントとなります。
(2)職種の特性
成果・スキル差が大きく、市場価値の変動が激しい職種(営業・エンジニア・専門職など)は、柔軟に報酬差をつける必要があるため「レンジレート」が適しています。 逆に、業務内容が定型的で成果差が小さい職種(事務・管理部門など)は、内部公平性を重視する文化とも相性が良いため、「シングルレート」の方が制度の整合性を保ちやすく、組織内の納得感も得やすいです。
なお、全社一律で決めるのではなく、職種単位で制度を分ける「ハイブリッド設計」も有効です。例えば、管理部門はシングルレートとしつつ、専門職のみレンジレートを採用するといった運用は、現実的かつ納得感が成立しやすい形の一つです。
(3)評価制度との整合性
成果主義やコンピテンシー評価を採用している企業では、「レンジレート」と連動させることで評価→処遇→昇給の因果関係を明確化できます。 一方、職能資格制度や年功的要素を重視する企業では、「シングルレート」の方が昇給基準が統一的であるため評価と給与の整合性を取りやすく、制度が形骸化しにくくなります。
ただし、シングルレートでは成長や成果の違いを処遇に反映しにくいため、優秀層のモチベーションへの影響は慎重に検討する必要があります。
導入にあたっては、「評価の粒度」と「給与決定ロジック」が整合しているかを必ず確認するようにしましょう。
(4)人件費管理の観点
「レンジレート」は個人差を反映した柔軟な報酬設計が可能ですが、昇給や採用時のオファー設定にばらつきが生じやすく、総人件費の見通しが立ちにくくなるリスクがあります。そのため、原資配分ルール(例:レンジ中央値を基準とした昇給シミュレーション)に加え、レンジの上限圧縮や原資枠設計といったバジェットガイドライン(予算配分や決定を行うための指針や基準)を事前に定義・明文化しておくことが不可欠です。
対して「シングルレート」は、給与が定額で推移するため予算管理が容易であり、総人件費を可視化しやすく、将来の原資見通しも立てやすい点が財務管理上のメリットです。ただし、市場変化に対応しづらいため、長期的には「市場乖離」による人材確保コスト(採用難・離職率上昇)として跳ね返る可能性も想定しておく必要があります。
したがって、「レンジレート/シングルレート」の制度選択は、『短期的な人件費統制を優先するか』『中長期的な人材確保・競争力維持を優先するか』という時間軸の判断も重要です。経営戦略・人事戦略・財務戦略を接続し、全社最適の視点で制度を設計できるようにしましょう。
──「レンジレート/シングルレート」の選択・導入判断を誤ると、どのような課題が生じる可能性があるのでしょうか。
「レンジレート/シングルレート」の選択・導入判断を誤ると、制度そのものが形骸化し、評価制度・人件費管理・組織文化・ひいては人的資本戦略に至るまで複層的な影響が生じます。制度設計は単なる報酬ルールではなく、経営戦略・組織文化・財務構造を結ぶアーキテクチャです。誤った判断は、経営の推進力そのものを削ぐリスクを孕みます。具体的には、以下5つの課題が生じる可能性があります。
(1)評価制度・組織文化との不整合による『制度の形骸化』
成果主義的な評価制度を採用しているのに「シングルレート」を導入すると、『評価しても給与が変わらない』という矛盾が生じます。逆に、年功的・職能資格的な文化の企業が「レンジレート」を導入すると、昇給判断の根拠が曖昧になりマネジャーが説明責任を果たせず制度が機能しません。結果として、『評価と報酬がつながらない』『制度はあるが動かない』といった“制度疲れ”が発生します。
(2)人件費コントロールの崩壊による『財務リスクの顕在化』
「レンジレート」でレンジ幅を広く設定しすぎた結果、人件費が想定を超えて膨張するケースがあります。数年で上限に達する従業員が増え、昇給原資が逼迫してしまうことも少なくありません。一方、「シングルレート」では給与が固定化しすぎて市場給与との差が拡大し、採用難や離職増により採用コスト・代替要員コストが増大します。制度判断の誤りが『短期的安定』を生んでも、『中長期的な人材コスト増』に転化するリスクは高いです。
(3)現場運用の混乱とマネジメント負荷の増大
「レンジレート」を導入したものの、マネジャーがレンジ内での給与位置づけを理解できず全員を中央値に集めてしまった結果、実質「シングルレート」化することがあります。逆に、平等志向の強い組織で差をつけすぎると『えこひいき』『格差感』が生まれてしまいます。これは制度導入時の教育・方針浸透・評価者トレーニングを軽視した結果であり、現場の納得感と信頼を損ねます。
(4)制度の耐用年数が短くなり、組織のアジリティを損なう
制度は本来、事業環境や市場の変化に合わせ柔軟に調整されるべきものです。しかし、「レンジレート/シングルレート」といった制度の根幹構造を頻繁に変更すると現場の混乱を招き、報酬制度全体への信頼を失います。制度は頻繁に変えるよりも持続的に調整できる設計が重要であり、フェーズごとに余白を持たせることが肝要です。耐用年数を意識せず導入すると、数年で陳腐化し、改定疲れや制度不信を生む結果となります。
(5)優秀人材のリテンション低下と事業計画への影響
制度選択を誤ると、優秀層が市場相場に見合う報酬を得られず離職し、組織の推進力が低下します。また、報酬体系が硬直化すると昇給や採用の柔軟性が失われ、事業計画そのものの実現可能性を損ないます。制度設計の誤りは単なる人事課題にとどまらず、経営戦略の実行スピードを阻害する要因になり得ます。
──では、これらの課題を放置すると、具体的にどのような経営リスクに直結するのでしょうか?
上記5つの課題は、制度の運用不全に留まらず、人的資本戦略の実行基盤そのものを弱体化させるリスクもあるため注意が必要です。特に、以下3点は非常に深刻な観点だと言えます。
(1)戦略人材ポートフォリオが歪む
給与レンジ設計を誤ると、戦略上の重要ポジションに必要な人材が適正に配置・維持できなくなります。レンジを狭く設定しすぎれば優秀層や希少職種の人材が市場水準を求めて流出し、DX・新規事業などの成長領域が停滞するからです。逆に、レンジを広げすぎると報酬決定の恣意性が高まり、『同じ職務なのに格差がある』といった不満を生みます。この状態は『人的資本ROIが低下した状態』とも言えます。報酬レンジは単なるコスト幅ではなく、どの層に報酬優位性を持たせるかという資本配分戦略の表現です。
(2)育成・スキル投資の動機づけが弱まる
報酬制度は、企業が『どの行動や能力に価値を置くか』を暗黙的に伝えるメッセージです。このメッセージが曖昧になると、従業員は何を高めれば報われるのかを理解できず、スキル向上やリスキリングへの意欲が低下します。成果を反映しない「シングルレート」や、昇給ルールの不透明な「レンジレート」では、成長と報酬が切り離され学習行動が停滞します。結果として、人的資本の質的向上が止まり、育成投資のリターンが可視化できない状態に陥ります。
(3)財務・人事の対話が断絶する
レンジ設計や昇給原資ルールが不明確だと、CFOとCHROの間で『人件費をどう位置づけるか』という共通認識が失われます。財務部門から見れば、個別最適的に動くレンジ昇給は予測不能なコストであり、人件費削減の対象になりがちです。一方、人事側から見れば、報酬柔軟性を削ることは競争力の喪失に直結します。この断絶は、人的資本経営の本質である『人件費=投資』の発想を形骸化させます。両者の対話を成立させるには、人件費を定量的に説明できる仕組み(中央値設計、レンジ分布、昇給シミュレーションなど)を整備し、“人件費を投資として語れる共通言語”を持つことが欠かせません。
レンジ設計や昇給シミュレーションは、人件費を抑制するための管理手段ではなく、経営戦略に対する投資計画の一部です。例えば、レンジ幅を広げる意思決定は単なる報酬の引き上げではなく、『新規事業投資に資する人材への資本配分を拡大する』という経営判断と捉えることができます。こうした考え方を前提に、レンジを“人材投資ポートフォリオ”として可視化することで、財務部門や経営企画との共通言語が生まれ、人事が“経営の資本戦略”の一翼を担えるようになります。
──人事と財務・経営企画が『共通言語』を持ち、対等に議論するためには、具体的にどうすればよいのでしょうか?
以下に具体的なポイントを3点に整理してお伝えします。
(1) 昇給・レンジを“コスト”ではなく“投資配分”として捉える
レンジや昇給シミュレーションを単なる人件費試算に留めず、『どの層に、どの程度の投資を行うか』を明示するツールと位置づけます。例えば、レンジ上限を広げる施策を「新規事業推進層への戦略的投資」と定義し、そこに対して想定リターン(採用成功率の向上・新規事業立ち上げ速度など)を設定する形です。こうして『レンジ設計=人的資本投資の配分構造』として可視化することで、財務部門や経営企画と『人件費=投資計画』として議論できる基盤が整います。
(2)投資対効果(ROI)を可視化するためのKPI設定
財務部門や経営企画との対話では、投資額(人件費)とリターン(人的資本KPI)を結びつける構造が不可欠です。例えば、レンジ拡張や昇給原資を投入した結果として採用充足率・高パフォーマー定着率・組織生産性・新規事業立ち上げ件数などの指標を追うことにより、報酬政策を“成果創出への投資”として説明することができるようになります。こうした可視化を通じて『人件費=再現性あるリターンを生む資本投資』という理解を財務部門や経営企画と共有することが可能になります。
(3)経営企画と人事の“共通言語”をつくる
人事が経営企画と対等に対話するためには、昇給やレンジを『管理の仕組み』ではなく『投資とリターンの関係を定量的に説明できる経営構造』として再定義することが求められます。例えば、『どの人材群に・どの程度の資源を配分し・どんな成果を見込むのか』を明確にし、その設計思想を経営と共有することで報酬制度は“コスト”ではなく“経営投資のポートフォリオ”へと進化します。この対話構造が確立されて初めて、人的資本経営が財務・経営企画と一体で機能するようになります。
ここまでの話を整理すると、人事が財務部門や経営企画と対等に議論するためには、以下の3つを明示・可視化が必要です。
・どの層に投資するのか(配分構造)
・どんな成果を期待するのか(人的資本KPI)
・どのようにリターンを測定・説明するのか(ROIモデル)

「レンジレート/シングルレート」導入における設計・運用のポイント
──「レンジレート/シングルレート」を設計・運用する際に陥りやすい課題にはどのようなものがありますでしょうか。
「レンジレート/シングルレート」は設計思想としては明快ですが、実際の運用では“想定外の歪み”が生じやすい制度でもあります。特に、『設計上のバランス欠如』と『運用現場での理解不足』が制度の形骸化を招く大きな要因です。設計・運用フェーズで陥りやすい課題と対策について、それぞれ3つずつご紹介します。
■設計フェーズで陥りやすい課題
(1)レンジ幅の設計が曖昧・広すぎる
レンジを広げすぎると処遇の一貫性が失われ、マネジャーの裁量による恣意的な判断が発生します。逆に、狭すぎると昇給余地がなくなり、高パフォーマーが市場に流出します。この対策としては、レンジ幅を『市場相場の分布(25〜75パーセンタイル)』と『社内昇給原資配分』の両軸で算定すること、中央値(Midpoint)を明示した上でそこを基準とした昇給ガイドラインを設定する、などがあります。
(2)昇給・昇格の根拠が不明確
昇給ルールを定量的に設計せず評価が高い人は上げる程度に留めると、上司ごとの裁量差が拡大して評価の公平性が損なわれ、制度への信頼や納得感が低下します。この対策としては、評価軸(職務貢献度・成果・スキル熟達度など)ごとの昇給トリガーを具体的に定義してレンジ内での『位置づけ変化』を可視化すること、昇給の説明責任を果たせるよう『レンジ位置×評価結果×昇給率』の関係を年1回明文化する仕組みを設けることなどが効果的です。
(3)制度の硬直化と耐用年数の短命化
設計時に『完璧な制度』を目指すと、環境変化に対応できず数年で制度が陳腐化します。この対策としては、制度設計段階から“改定の前提”を織り込み、レンジ幅や昇給ロジックを見直す棚卸しサイクル(2〜3年単位)を設定すること、制度に余白を持たせて段階的改定を想定することなどが持続性につながります。
■運用フェーズで陥りやすい課題
(1)マネジャーの理解不足と説明力の欠如
レンジ制で最も難しいのは『説明責任』です。『なぜこの昇給幅なのか』『レンジ内の位置づけは何を意味するのか』を説明できないまま運用すると、評価結果が不信感に直結します。多くの企業では人事が制度説明を一括で行うのみで、マネジャー個々の理解や説明力にばらつきが残るケースが目立ちます。この対策としては、以下のような取り組みが効果的です。
・マネジャー教育を制度導入時だけでなく昇給・評価・昇格のサイクルごとに継続実施し、”レンジは評価の点数ではなく成長余地のマップである”という考えを浸透させる
・『同じ評価でもレンジ位置が異なる場合、昇給幅はどうすべきか』などのケーススタディにより制度を使える組織に変える
・昇給説明時の言い回し例(『あなたの位置づけはレンジの中で平均より上にあります。これは成果の持続性とスキル成熟度を反映しています』など)をテンプレート化して展開する
(2)評価・報酬・昇格の一貫性欠如
評価が昇給に反映されず昇格とも連動していないと、従業員は何を目指せば良いかが分からなくなります。制度運用で最も多い失敗はここにあります。この対策としては、以下のような取り組みが効果的です。
・評価結果の”意味付け”を統一する(例:評価B=標準成果、評価A=高成果で終わらせず、それが”どのレンジ位置の変化”や”昇格準備状態”に対応するのかを定義する、など)
・評価→昇給→昇格を一連のプロセスにする(例:年度末評価と同時にレンジ位置の見直しを行い、翌年度の昇格候補者を抽出する、など)
・一貫性マップの整備(例:評価→報酬→昇格→キャリアの関連性を可視化した一枚資料を全マネジャーに配布する、など)
(3)制度理解の分断と形骸化
制度説明が導入時だけで終わり、現場で“レンジの意味”が忘れられるケースが多く見られます。運用者が『レンジ=点数ではない』という本質を理解していないと、制度形骸化に直結します。レンジの位置(例:下限〜上限)は、個人の現時点の役割遂行レベル・貢献度・市場価値の複合指標であり、単なる“評価結果の延長”ではありません。この対策としては、以下のような取り組みが効果的です。
・評価フィードバックや1on1面談などの年次サイクルの中に制度再説明の機会を組み込み、その中で『レンジ位置=市場価値ではなく、役割価値×成果貢献の指標である』という考え方を繰り返し浸透させる
・レンジポジションの定義づけ(例:『Midpoint=期待成果を安定的に発揮している水準』『上限=高い再現性と戦略的貢献を持つ水準』と明文化する、など)
・視覚的ツールの活用(例:人材マネジメントシステム上で、個人のレンジ位置をグラフ化し、成長に応じてどの位置を目指すのかを明示する、など)
・給与レンジ説明の内製マニュアル(例:レンジ位置の意味、位置変化と昇給の関係、レンジ上限到達後のキャリアパスなどについて、人事・マネジャー共通で使える説明資料を整備する、など)
他にも、評価・報酬のプロセスを“データに基づく対話”として定着させられるとより制度が機能するようになります。主観や感情ではなく、実績・市場データなどをもとにレンジ位置の根拠を語る文化を醸成する形です。
そのためには、レンジ位置・昇給履歴・評価傾向を個人・組織単位でBI化しマネジャーが客観的に把握できるようにすることに加え、部門間で昇給率・レンジ位置分布を比較して整合性を確保すること、そして1on1の中で“給与を含むキャリアの対話”をタブー化せず事実ベースで扱うよう促すことなどの取り組みが必要になります。これにより主観的判断のばらつきが抑えられて公平性が担保されると同時に、データを根拠に対話する文化が根づいて評価制度全体の透明性が高まる効果が期待できます。
ここまでの話をまとめると、制度運用における最大の工夫は『仕組み』よりも『語り』にあります。マネジャーが報酬を語れて、従業員が自らのレンジ位置と成長の道筋を理解できる状態──これこそが「レンジレート/シングルレート」を“制度”から“マネジメント基盤”へ昇華させるための本質的条件と言えるでしょう。
「レンジレート/シングルレート」の導入事例
──実際に「レンジレート/シングルレート」を導入した企業の事例について、導入背景や狙い、制度設計の工夫、運用後に得られた効果や課題などの観点から教えてください。
ここでは、「レンジレート」を新規導入した事例と、「シングルレート」へ移行した事例、そして「シングルレート」を基盤に賞与で柔軟性を補った事例の3つをご紹介します。
■事例1:採用競争力と中期戦略の執行基盤を整えるための「レンジレート」導入
<導入の背景・狙い>
シリーズA以降の成長フェーズで採用を急拡大する中、特にエンジニア・ビジネス人材を獲得するための報酬設計が存在せず、市場相場に即した柔軟な報酬設定ができないことが大きな課題でした。また、中期経営計画を実現できる組織体制を構築するための制度的土台も未整備で、早急な対策が求められていました。
<制度設計の工夫>
競合他社をベンチマークにマーケットバリューを分析し、等級ごとにレンジレート(下限〜上限)を設計。さらに、同一等級内でも期待役割に応じた差を持たせるため、等級の中にサブランク(ランク帯)を設定し柔軟に報酬レンジを運用できる構造にしました。これにより、評価制度と報酬制度がより実態に即して連動するようになりました。
<運用後の効果・課題>
期待役割に応じた報酬設定が可能になり、特に採用競争力が顕著に改善しました。一方で、柔軟性の向上に伴いマネジャーによる昇給・報酬決定の説明責任は増加。これを受けて、制度運用を支援するマネジメントガイドの策定や人事による伴走体制の強化を進めた結果、報酬制度が『経営・現場・採用をつなぐ共通言語』として機能し始めました。
■事例2:「シングルレート」移行による統制と説明負荷のバランス再構築
<導入の背景・狙い>
現行制度では同一等級・同一役割でも個人によって等級ランクや給与額が異なるケースが多く、人件費管理や報酬決定の公平性に課題がありました。加えて、報酬が個別調整ベースで決まるため、マネジャーや経営層が全体の人件費構造を把握しづらい状況でもあったことから、報酬決定の一貫性と予測可能性を高めるために「シングルレート」制度への移行が決定された形です。
<制度設計の工夫>
個別最適ではなく、統制と一貫性の確保に重点を置いた構造に変更しました。
・等級:役割に応じて一律に設定(同役割でランク差をなくす)
・人件費管理:等級ランク×人数で概算人件費を算出できるように設計
・報酬決定(平等性):等級・報酬の整合性が高く、入社時期に左右されない設計へ変更
・報酬決定(自由度):個別調整はできないものの、制度としての説明性と透明性は向上
<運用後の効果・課題>
報酬決定の透明性が高まったことを受け、同一職務・同一等級間の不公平感は解消しました。また、全社的な人件費シミュレーションが容易になったことから、経営管理面でも有効性が確認された点も大きな成果でした。一方で、個別の貢献や採用時プレミアムへの対応が難しくなり、優秀人材の処遇柔軟性をどう担保するかが新たな論点となりました。それを解消するべく、限定職種での「レンジレート」併用や、賞与・特別調整での柔軟対応を検討するフェーズに入っています。
<事例1 / 事例2の整理>
| 観点 | レンジレート導入企業(事例1) | シングルレート移行企業(事例2) |
| 導入目的 | 採用競争力の強化・柔軟性の確保 | 公平性・一貫性・人件費管理性の向上 |
| 制度の特徴 | 等級内にランクを設け柔軟運用 | 等級ごとに一律レートを設定 |
| 運用効果 | 採用・定着率向上、報酬差別化 | 公平性・予測性の向上 |
| 主な課題 | 説明責任・運用負荷の増大 | 柔軟性・市場対応力の低下 |
| 補完策 | マネジャー支援・評価ガイド整備 | ハイブリッド運用(レンジ併用)検討 |
■事例3:「シングルレート」を基盤に賞与で柔軟性を補うハイブリッド運用
<導入の背景・狙い>
ある大手BtoBサービス企業にて、統制性・公平性を維持しつつ、成果反映とモチベーション向上を実現できる方法を模索することになりました。そこで、「シングルレート」を基盤としながらも『変動賞与』を取り入れた設計を検討。人件費を固定費化して安定性を確保しつつ、賞与で成果・貢献・役割発揮に応じた変動を設けることで「レンジレート」に近い柔軟性を担保する形です。
<制度設計の工夫>
基本給を等級ごとに一律とし、賞与の変動幅を±30%に設定。個人評価・部門業績の双方を賞与に反映することで、成果連動性と透明性を両立できるようにしました。また、賞与原資を部門業績と連動させることで、人的資本への投資リターン構造を経営と共有できるようにしています。
<運用後の効果・課題>
基本給の統制性を維持しながらも、優秀層へのインセンティブ効果が高まり、レンジ制導入時に課題となる『恣意性』や『説明負荷』のリスクを抑制することができました。一方で、成果指標の妥当性や説明コストは依然課題として残っており、その解消に向けてマネジャー支援のための報酬対話ツールやトレーニングの整備が進められています。上記事例からもご理解いただけたかと思いますが、「レンジレート/シングルレート」は対立概念ではなく、『柔軟性×統制』『個別最適×全体最適』という軸の中で設計・選択すべきものです。事例3のように、「シングルレート」の安定性に賞与による変動性を組み合わせるハイブリッド運用は、この二軸を高次で統合する新たな実践形態と言えます。
最も重要なのは、制度の背後にある思想(報酬をコストではなく経営資源への再投資として捉えること)です。この視点を持つことで、人事制度は単なるオペレーションではなく、経営と財務をつなぐ“人的資本投資の戦略装置”として真価を発揮します。
今回ご紹介した事例以外にも、厚生労働省から『職務給の導入に向けた取組事例集(2023年)』が発行されており、その中で、中堅小売・卸売企業の「レンジレート」導入事例(年功制からの脱却と内部公平性の再構築)や、小売・サービス企業の「レンジレート/シングルレート」ハイブリット構成の導入事例などが紹介されています。こちらも合わせて参考にしてもらえると嬉しいです。
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編集後記
『「レンジレート/シングルレート」は公平性と柔軟性のトレードオフとなる制度』と冒頭でも解説いただいた通り、どちらが良い・悪いといった話ではなく、自社の現状や課題、目指す姿などによって適宜選択・変更を加えていく必要があるものだと理解できました。頻繁に変更してしまうのは考え物ですが、必要に応じて柔軟に制度やあり方を変えていく前提で考えていきたいテーマではないでしょうか。












