世界的に対応が求められている「人権デューデリジェンス」とは
「人権デューデリジェンス」という言葉をご存知でしょうか。デューデリジェンスは知っていても、その頭に『人権』がつくと正確な意味や内容がイメージできない方も多いかもしれません。欧米では企業の人権リスクに関する内部統制システムとして組み込む企業が増えるなど、グローバル・SDGs・人権問題などの文脈において、「人権デューデリジェンス」は注目されているキーワードです。
そこで今回は、「人権デューデリジェンス」の概要から世界的な動向、実務例に至るまでを人事パラレルワーカーの菅井 郁さんにお話を伺いました。
<プロフィール>
菅井 郁(すがい かおる)/人事パラレルワーカー
日系企業人事部(航空会社)、外資企業人事部(在シンガポール、アメリカ、ドイツ)にて人財開発・教育総責任者として全社の教育体系構築や社員の能力開発を行う。企業での管理職キャリアを積みながら、経営学や人材開発学の講師として大学で教鞭をとる。イギリスの大学院にて経済学(人材開発学)修士号を取得。第1種衛生管理者、国家資格キャリアコンサルタント、元シンガポール政府公認人材コンサルタント等の人事資格を駆使し、個人・企業向けの人事コンサルティングや企業研修も行う。また、仕事で役立たせるために取得した日本酒唎酒師、文化庁日本語講師、サービス接遇検定1級、総合/国内旅行取扱管理者等の資格に関連したリカレント教育やキャリア開発の講演や研修も行なっている。
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目次
「人権デューデリジェンス」とは
──「人権デューデリジェンス」とはどういったものなのでしょうか。企業の社会的責任(CSR)との違いや関係などを含めて教えてください。
デューデリジェンスという言葉はM&AやIPO時で使われることが多く、金融業界や財務関連の仕事をしている方にとっては耳慣れた用語です。具体的には、企業買収時の企業価値や適正価格の整合性を見定めるために『当然おこなうべき(Due/デュー)』財務分析や企業内部に潜むあらゆるリスクを、『不断の努力(Diligences/デリジェンス)』で徹底的に調査する行為を意味します。
その頭に人権という言葉をあてはめた「人権デューデリジェンス」の意味するところは、人権侵害リスクへの対応について企業が不断の努力で当然行うべきことと言い換えて差し支えないでしょう。日本の関係省庁では企業活動における人権への影響の特定、予防・軽減、対処、情報共有を総称して「人権デューデリジェンス」と呼んでいます。
こう説明すると、「人権デューデリジェンス」を企業の社会的責任(CSR)と同じ文脈で捉える方もいるのではないでしょうか。確かに企業の人権問題への取り組みはCSRの一環です。一方で、CSRは環境配慮や社会貢献を中心とした企業の経営課題およびその責任を主に意味しています。
2013年に起きたバングラデシュの裁縫工場大規模崩壊事故を契機に、日本をはじめとする先進国企業の人権侵害問題が大きく取り上げられました。環境問題や社会貢献に主眼をおいたCSRでは十分にカバーしていなかった人権について、2011年に国連人権理事会が発表した『ビジネスと人権に関する指導原則(上図)』によって多国籍企業および国際社会に対する人権への義務と責任についての議論が高まり、「人権デューデリジェンス」はCSRの一環ではなく、個別で取り組むべき最重要課題であると認識されるようになりました。
「人権デューデリジェンス」推進の参考となるガイドライン
──「人権デューデリジェンス」を推進する上で、ガイドラインのようなものはあるのでしょうか。
前述した国連人権理事会の『ビジネスと人権に関する指導原則』(2011年)を受けて、まずは欧州諸国を皮切りに各国の法令に即した国の行動指針が策定されました。それに追随する形で日本でも省庁横断型の作業部会が発足され、2020年10月には日本政府の見解をまとめた『ビジネスと人権における行動計画』が策定されています。
ただ、日本政府が策定したものはあくまで行動計画であって行動指針(ガイドライン)ではありません。実際に多くの日本企業から、サプライチェーンにおける「人権デューデリジェンス」の具体的な取り組み方法がわからない、といった声が多く寄せられており、ガイドラインがないことで実行に至ることができない企業の実態が明らかになった形です。
これを受けた萩生田経済産業大臣が2022年2月の記者会見で『今年の夏を目途にサプライチェーンのガイドライン策定を目指す』と発言したことが多くのメディアで取り上げられました。年々拡大するESG投資(財務情報だけでなく環境・社会・企業統治の要素を加えた投資)を呼び込むために企業による人権分野の情報開示を期待する内外の投資家に応えなくてはならないという事情も、この発言が注目された背景の一つです。
──つまり、これからガイドラインは策定されるということですね。現時点で企業が参考にできるガイドラインは他にないのでしょうか。
現時点で日本企業が参考にできるガイドラインとして、以下2つがあります。
「責任ある企業行動のためのOECDデュー・ディリジェンス・ガイダンス」(OECD, 2018)
以下6つの実行プロセスがQ&A方式で具体的に説明してあるものです。経済産業省のガイドライン策定作業部会でもこれを骨子に策定すると言及しています。
① 責任ある企業行動を企業方針および経営システムに組み込む
② 企業の事業、製品またはサービスに関連する実際のおよび潜在的な負の影響を特定し、評価する
③ 負の影響を停止・防止および軽減する
④ 実施状況および結果を追跡調査する
⑤ 影響にどのように対処したかを伝える
⑥ 適切な場合是正措置を行う、または是正のために協力する
「中小企業のための人権デュー・デリジェンス・ガイドライン~持続可能な社会を実現するために」
こちらは人権尊重の対応に関する情報が不足しがちな中小企業向けに作成された「人権デューデリジェンス」ガイドラインで、実行ステップや業種別実行事例がわかりやすく解説されています。
特に参考になりそうな項目を目次より以下に抜粋しましたので、ご覧ください。
(1)企業にとって人権とは?
(2)企業にとって守るべき国際的指針とは?
(3)人権デューデリジェンスとは具体的に何をすればいいのか?
Step1:人権方針の策定
Step2:人権の影響評価
Step3:是正・軽減措置の実行
Step4:モニタリング・実効性評価
Step5:相談窓口の整備
(4)人権デューデリジェンスやってみよう(業種別事例)
「人権デューデリジェンス」の世界動向
──「人権デューデリジェンス」について、海外ではどのような状況なのでしょうか。また今後の日本における動きの予測などについても菅井さんの考えを教えてください。
直近5~6年の国際連合総会(※1)では、『強固な人権デューデリジェンスがビジネスにとって持続可能な発展へ最も力強く貢献する』として声高に「人権デューデリジェンス」について語られています。またEUでは、加盟国・全セクターの大企業に対して「人権デューデリジェンス」を盛り込んだ非財務情報の報告義務化をOECD多国籍企業行動指針(※2)に準拠した形で実現しようとしています。
(※1)国際連合総会とは、国際連合の主要機関の一つ。基本的に全ての国際連合加盟国が参加するもの。
(※2)OECD多国籍企業行動指針とは、経済協力開発機構加盟国及びこれを支持する諸国において事業を行う多国籍企業、あるいはOECD加盟国及び指針を支持する諸国出身の多国籍企業に対する政府の勧告のこと。
このEUの動きの背景には、5兆ドル超えの資産を運用する投資家たちが企業の「人権デューデリジェンス」義務化を求める陳情に署名したことがあります。またスイスは欧州内で最も早く「人権デューデリジェンス」の義務的報告を金融セクターに導入させることを2019年に法案可決させました。さらにアメリカでは、まだ法案可決はされていないもののEU同様に5兆ドル超えの資産を運用する投資家たちが人権に関する情報を含んだESG開示の義務化を米国証券取引委員会に要請しており、「人権デューデリジェンス」にとっては重要な一歩と言われています。
このように、欧米ではもはや「人権デューデリジェンス」を企業の人権リスクのための内部統制システムとして組み込んでいかないと、市場における企業活動の継続が危ぶまれるほど強制力を持った施策になりつつあります。
この流れから考えれば、当然海外でサプライチェーン展開をする日本企業は、その事業規模に関わらず海外の法規制を受けることは避けられません。また、欧米市場の投資家によるESG投資のS(Social)に対する注目度や要求度が非常に高いことも明らかなため、2022年夏の策定を目指すといった経済産業大臣発言の通り、サプライチェーンにおける「人権デューデリジェンス」行動指針策定が急がれるところです。
日本はG7の中で唯一、法規制や指針などがないため、その取り組みの遅れを内外から指摘されています。そのため法制化を待たずとも、各企業で「人権デューデリジェンス」の取組みを明確に打ち出していかなければ、グローバル市場における企業価値や経済活動にネガティブな影響が遅かれ早かれ出てくると思います。
「人権デューデリジェンス」に人事はどう対応するべきか
──菅井さんがイメージされているような動きが今後日本で起こった場合、人事としてはどういったアクションを取る必要がありそうでしょうか。
私は「人権デューデリジェンス」を会社を魅力ある投資先としてアピールできる絶好のツールだと受け止めています。そのため、他部門に任せがちな以下のような項目も、人権を常日頃から取り扱っている人事部門が有機的に関与して実行実現性を高めていく必要があると考えています。
・株主、投資家への説明対応
・非財務情報として有価証券報告書等へ「人権デューデリジェンス」を情報開示
・取引契約条項への「人権デューデリジェンス」関連条項の導入
・取引先や関連会社への監査項目への「人権デューデリジェンス」関連条項の追加実施
など
なお、「人権デューデリジェンス」関連ルールはその多くが欧米先行型であるため、日本の人事担当者だけでは情報収集が追いつかず、法的な抜け漏れに気がつかないことも想定されます。この機に顧問弁護士や法務部と密な連携をとり、互いに知識のアップデートとタイムリーなアクション修正を図る体制を構築することも重要になってくるでしょう。
とはいえ、日本企業では人権研修やコンプライアンス研修などを人事部門が主導していることも多く、ハラスメントなどの通報・相談窓口も人事部がサポートしていることが大半です。その意味で人事部門は「人権デューデリジェンス」に関連した実業務をすでに行っていると言えますから、過剰に慌てたり恐れたりする必要はありません。より丁寧な「人権デューデリジェンス」を推進するためには、前述した2つのガイドラインを参考にするのが良いでしょう。これまで行ってきた取組みを今一度整理して、他社事例なども参考にしながら既存の内容をアップデートしていくこともすぐにできることとして有効です。
海外・国内における「人権デューデリジェンス」の実例
──これまでに菅井さんが関わった「人権デューデリジェンス」の実例について教えてください。
現在私が所属しているのはドイツ資本の自動車部品メーカーなのですが、ドイツでは2023年から一定規模以上の企業を対象として、「人権デューデリジェンス」を盛り込んだ非財務情報の報告が義務化されます(「サプライチェーン注意義務法」2023年1月施行)。今のところまだ本国からのお達しはありませんが、これまで以上にこまやかな報告を求められることになるでしょう。
それを意識したわけではないのですが、2022年6月のCOVID-19入国制限緩和に伴い、外国人技能実習生の受入れを再開しました。その際に「人権デューデリジェンス」を盛り込んだダイバーシティ教育を全管理職向けに実施し、さらに外国人技能実習生向けの専用相談窓口を新たに開設する取り組みも行いました。
後ほどご紹介する大企業の「人権デューデリジェンス」取組み事例と比べれば、実施規模は小さく、目新しい施策でもないことは認識しています。しかし、身の丈をはるかに超えた取り組みは持続可能ではありません。社内の現実を見定めて既に実施している内容のブラッシュアップを図ること、そしてスピード感をもって確実に実施していくこと──これこそが堅実かつ確実な「人権デューデリジェンス」施策のあるべき姿だと考えています。
ちなみに前職はアメリカの半導体メーカーで人事教育の総責任者でした。当時はまだ「人権デューデリジェンス」にフォーカスした社内議論はなかったものの、本国からの意向で『ダイバーシティ&インクルージョン+人権+サスティナビリティ』の3本立てでの教育にかなり力を入れていた記憶があります。毎年数千人規模で行なう教育・研修は、その内容が形骸化・陳腐化しないように毎年最新の情報を盛り込み改編していたので非常に大変でした。ただ、実施によって明らかに社内でのハラスメント事案は激減し、外国籍新入社員の数が毎年増加するなどの非常に良い効果も表れました。
──公開されている他社の実例についても教えてください。
2021年11月に外務省と経済産業省が合同で『日本企業のサプライチェーンにおける人権に関する取組状況のアンケート調査』を実施しました。760社からの回答があり、うち52%(392社)が「人権デューデリジェンス」を実施していることがわかりました。
その実施企業の実例については、法務省、外務省、経済産業省、経団連等の「人権デューデリジェンス」関連資料で紹介されています。このような名だたる省庁や経済団体から実例を紹介されるだけでも、企業にとってはESG投資含めて企業価値向上につながるポジティブ効果があるように感じます。
なお、海外における「人権デューデリジェンス」事例については日本貿易振興機構(JETRO)海外調査部がまとめた『サプライチェーンと人権に関する政策と企業への適用・対応事例』をご覧になると、各国の施策と併せて理解が進むでしょう。
日本における「人権デューデリジェンス」取組の好事例として、私は是非味の素株式会社をご紹介したいと思います。世界に冠たる大企業ですから『組織規模が大きすぎて参考にならない』と感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、味の素社が実施している「人権デューデリジェンス」施策は、その1つひとつがとても丁寧でわかりやすいため、自社で実施する際の参考にしやすいはずです。
味の素社が取り組んでいる施策の主なものは以下です。
(1)人権方針によるコミットメント
・経営トップの人権コミットメントの表明手段として人権尊重に関するグループポリシーを公表。
・グローバルに人権イーラーニングを実施。日本では全従業員、海外ではマネージャーを対象に、世界人権宣言と指導原則の内容+同社のビジネスとの関係についての教材。
・人権に関する重要課題は定期的に見直す必要があるがポリシーをその度に改定することが難しいため、重要課題は「別表」として別出し、見直しを行いやすい構成を採用。
(2)人権デューデリジェンス国別影響評価報告書
・事業全体の潜在的なリスク分析を実施。高リスク地域であると判明した国で徹底的な人権デューデリジェンスを行い報告書にまとめたことで欧米企業へのアピールになった。
(3)苦情処理メカニズムの整備
・NGO「ワーカーズボイス」をグループ内の外国人労働者に導入。労働者の生活相談にも対応できるような、労働者に寄り添える第3者窓口であり、他企業従業員も含めた蓄積した知見や情報を企業間で共有して活用することで、企業としても効率的な人権デューデリジェンスが可能となった。
味の素社の素晴らしいところは、とにかく自発的に人権リスクとその対応策や予防策を開示している点です。人権に対しての課題を各部門・拠点・業務フロー・取引先などで徹底的に洗い出し、その上での是正と継続的な教育も能動的に開示されているのです。また、業務だけに限定せず生活面での問題やトラブルに関しても相談できる、外国人社員向けの多言語ホットライン『ASSCワーカーズボイス』を導入しています。(※)
当たり前のことのようですが、日本語のみの利用に限定されてしまっていたりと、声の拾い上げができていない企業もあると思いますし、財務状況などとは切り離しても、シンプルに『オープンで信頼できる会社だな』と感じますよね。これらの事例は私の現在の業務でも大いに参考にしています。
このように、味の素社は「人権デューデリジェンス」を通して人的資本経営の根幹となる心理的安全性をしっかりと担保し、社会的信頼と企業価値を世界規模で高めていると感じます。前述した省庁や経済団体の資料やインターネット検索はもちろん、味の素のWebサイトでもすぐに内容が閲覧できますので、ぜひ参考にしてみてください。
(※)参照:味の素株式会社HP 外国人労働者向け多言語対応ホットラインの運用を開始
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編集後記
SDGsやESGの潮流の中、「人権デューデリジェンス」に関する取り組みや姿勢はグローバルレベルで注目されています。一方、日本のコーポレートガバナンス・コード(企業統治指針)にも人権を尊重するよう求める規定が盛り込まれましたが、現状はまだ原則に留まっており義務ではありません。日本の動きに合わせるのではなく、世界的な潮流を横目に見ながら、この分野への取り組みを進めていく必要がありそうです。