スキルマトリックスで可視化する取締役スキルと人的資本開示の要点
従業員や取締役などのスキル・知識・経験を一覧にして可視化する「スキルマトリックス」。自社の強み・弱みを把握して人材開発・配置に活かすだけでなく、近年は上場企業が取締役会の多様性・実効性を株主などのステークホルダーに開示するために作成されるケースも増えてきているようです。
今回は、人事戦略コンサルタントとして100社以上(外資〜官公庁含む)の支援実績を持つRCC代表の玉田 雅行さんに、「スキルマトリックス」の概要から作成ステップに至るまでお話を伺いました。
<プロフィール>
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玉田 雅行 /人事戦略コンサルタント、RCC代表
外資〜官公庁含む100社以上の支援実績。中小企業の『見えづらいもの』を仕組み化し、未来を描ける組織づくりを支援しています。人事制度作成プラットフォーム『Tegajin』を開発・販売。
目次
「スキルマトリックス」とは
──「スキルマトリックス」の定義や目的について教えてください。
「スキルマトリックス」とは、組織に所属する人材の保有スキル・経験・資格・役割能力などを体系的に整理し、一覧化する仕組みのことです。個々のスキル状態を可視化することで組織の強み・弱みを把握し、人員配置・育成計画・採用戦略などに活用できます。特に、業務が高度化し多様な専門性が求められる現代においては、人的資本を戦略的に最大化するための基盤として「スキルマトリックス」の重要性が高まっています。この「スキルマトリックス」を作成する目的を整理すると、大きく以下3つが挙げられます。
(1)スキルの現状を把握することにより、適材適所の配置や後継者育成を支援すること
(2)育成ギャップを明確化し、能力開発や人事施策の優先順位付けを可能にすること
(3)組織として必要なスキル要件と、個人のキャリア形成を接続し、自律的な成長を促すこと
他にも、役割定義や等級制度と連動させることで『評価の透明性向上』も期待できます。
──「スキルマトリックス」は取締役会の形式的な一覧表として誤解されることもあるようですが、実際にはどのような意義や効果を持つ仕組みなのでしょうか?

「スキルマトリックス」は形式的な一覧表ではなく、『能力ギャップの把握→育成・補強→実践能力向上』という循環を生み出す仕組みです。近年注目される『二重編み組織(※1)』の観点では、事業成果を担う公式組織(チーム)と、専門性深化や知識移転を担う実践共同体(PoC:Community of Practice)を接続し、学習と実践の往復を強化する装置として機能します。PoCは、共通の専門性や課題を持つメンバーが相互に学び合い知識を深める場であり、「スキルマトリックス」で可視化された能力ギャップを埋めるための“学習と成長の基盤”となります。
※1:『二重編み組織』とは、実践共同体(特定のテーマに関心や問題意識を共有する人々の集団)と公式組織(チーム)という2つの異なる構造が重なり合って存在する組織形態のこと。この二重構造により、公式な業務と、実践共同体での専門的な知識やスキルの共有・深化を両立させ、学習のサイクルを生み出すことが期待されます。
このように「スキルマトリックス」は、経営課題に対して『どの専門性を・誰が・どのように補完/育成していくか』を明確化し、人的資本の持続的成長を支える中核的なインフラとして重要な役割を果たすものです。
「スキルマトリックス」作成が求められる理由
──「スキルマトリックス」の作成が企業に求められる背景にはどのようなものがあるのでしょうか? 社内的・社外的観点のそれぞれから教えてください。
ここからは、とくに取締役会や経営幹部など「経営レイヤー」での活用にフォーカスして、「スキルマトリックス」の作成が求められる背景を整理していきます。「スキルマトリックス」の作成が求められる背景には、『人的資本を経営資源として戦略的に活用し、その妥当性を社内外に示す必要性が高まっていること』があります。社内・社外それぞれの観点から解説します。
■社内的な背景
経営に必要なスキルや経験を明確化し、取締役会や幹部層におけるバランスの取れた能力構成を担保することが「スキルマトリックス」を作成する主目的です。特に、事業環境が急速に変化する中では『デジタル』・『ガバナンス』・『グローバル』といった将来重要性の高い領域を先回りして補強できる点は大きく、またスキルの可視化を通じて後継者育成や多様な視点の導入を促し組織学習を強化する効果も期待されています。
■社外的な背景
投資家や金融機関などのステークホルダーに対し、経営陣の能力が経営課題に適合していることを説明することで信頼性と透明性を高める役割を果たします。特に、コーポレートガバナンス・コード(※2)においては取締役会の『多様性・機能性・監督能力』の確保が求められており、その一環として取締役の知識・経験・スキルの構成を示す『取締役会スキルマトリックス』の開示が広く実施されていることから、取締役会の実効性評価や企業価値評価にも影響を及ぼし始めています。
※2:コーポレートガバナンス・コードとは、日本の上場企業が企業統治を強化し、持続的な成長と企業価値の向上を図るための原則・指針のこと
補充原則 4-11①
取締役会は、経営戦略に照らして自らが備えるべきスキル等を特定した上で、取締役会の全体としての知識・経験・能力のバランス、多様性及び規模に関する考え方を定め、各取締役の知識・経験・能力等を一覧化したいわゆるスキル・マトリックスをはじめ、経営環境や事業特性等に応じた適切な形で取締役の有するスキル等の組み合わせを取締役の選任に関する方針・手続と併せて開示すべきである。その際、独立社外取締役には、他社での経営経験を有する者を含めるべきである。
※引用:コーポレートガバナンス・コード 原則4-11補充原則①/株式会社東京証券取引所
さらに、2023年以降は人的資本開示が強化されて従業員の能力開示や育成方針の明示が求められる中、管理職層や専門職層においても「スキルマトリックス」の整備・活用が実務的な要請となっています。
以上のことから、「スキルマトリックス」は単なる“経営陣の能力一覧”ではなく、取締役会の機能性評価から後継者育成・専門職層のスキル育成まで一貫してつなぐ、『人的資本の戦略性とガバナンスの質を高めるための重要な開示・運用インフラ』として位置付けられています。
「スキルマトリックス」導入による効果
──実際に「スキルマトリックス」を導入した企業では、どのような変化や効果が見られていますか?
ここまでにご紹介した通り、「スキルマトリックス」は経営戦略に必要なスキルを体系的に定義し、取締役会や経営幹部の能力を可視化することでガバナンス強化・人的資本経営の信頼性向上・多様性推進・後継者育成の高度化などを実現する仕組みです。さらに、実践共同体(PoC)と連動させることで能力育成の再現性や知識循環を生み出し、企業競争力の持続的な向上にも寄与します。
実際の導入企業においても、さまざまな具体的な成果が見られています。まず、大塚ホールディングスでは監査役を含めた詳細な「スキルマトリックス」を株主総会招集通知で開示し、財務/会計・内部統制・ガバナンス・リスクマネジメントなど監督に必須のスキルを明確化しました。これにより、取締役会の監督機能の強化および説明責任の高度化を実現しています。
また、富士フイルムホールディングス・NEC・電通グループ・資生堂など多くの上場企業では、主スキル・副スキル・知見レベルの多層表示や個々のプロフィール併記など、開示の精度と透明性を高める取り組みが進んでいます。これらは大和総研レポート(2022/5/18)でも指摘されている通り、投資家との建設的な対話を促進し、ガバナンス報告の質を向上させる動きとして評価されています。
なお、制度面では金融庁が以下のようなポイントを求めています。
・社外取締役1/3以上の選任
・各取締役のスキルマトリックス開示の事実上の義務化
・女性/外国人など中核人材の多様性目標の設定・開示
企業はスキル構成の妥当性と多様性を対外的に説明する必要性が一層高まっています。これにより、多くの企業で取締役会構成の見直しやダイバーシティ経営の推進が進んでいます。
これらの取り組みにより期待される成果としては、以下4つが挙げられます。
(1)ガバナンス・人的資本開示の質向上による投資家評価の改善
(2)ダイバーシティ推進による企業ブランド力・採用力の向上
(3)経営陣の能力ギャップ解消による意思決定の質向上
(4)後継者育成の高度化による持続的な経営基盤の強化
実際に、富士フイルムHDや資生堂では開示強化後にESG投資家からの評価が改善し、電通グループでは経営体制改革と「スキルマトリックス」開示が連動する形で説明責任と透明性の強化が投資家の信頼回復につながったとされています。
「スキルマトリクス」の主な開示項目
──一般的に多くの企業が開示しているスキル項目にはどのようなものがありますか? また、スキル項目を設定する際に『自社らしい独自性』を持たせるための工夫や考え方も合わせて教えてください。
多くの企業が開示している「スキルマトリックス」の項目は、コーポレートガバナンス・コードが示す『取締役会の実効性』や、金融庁が求める『経営陣の多様性確保・説明責任』の観点に沿って大きく共通化しています。一般的には、以下8つが代表的な項目です。
(1)経営・戦略(経営戦略、事業開発、ガバナンス)
(2)財務・会計(財務戦略、資本政策、内部統制)
(3)リスクマネジメント(法務、コンプライアンス、サイバーセキュリティ)
(4)人的資本(組織開発、労務、人事戦略、DE&I)
(5)デジタル領域(DX、ITガバナンス、データ活用、AI)
(6)グローバル(海外事業、異文化マネジメント)
(7)サステナビリティ(ESG、脱炭素・TCFDなど)
(8)業界固有スキル(医薬の薬事、金融の規制対応、製造の品質保証など)
しかし、スキル項目を『ただ並べただけ』では企業価値向上にはつながりません。形骸化を防ぎ、自社らしいスキル体系を構築するためには、以下4点が必要不可欠だと考えています。
(1)経営戦略との整合性
経営戦略から逆算してスキル項目を定義することが重要です。例えば、DX推進を掲げる企業であれば『AI企画力』や『データ基盤構築力』など、単なるITではなく事業成長と直結する表現にすることで投資家への説明力が高まります。
(2)事業特性の明確化
食品メーカーであれば『食の安全性評価』、インフラ企業であれば『レジリエンス設計力』、物流企業であれば『SCM最適化(※)』といった具合に、社会的価値提供に紐づく固有スキルを盛り込むことで独自性が生まれます。
※原材料の調達から製品が消費者に届くまでのサプライチェーン全体で、無駄を省き、効率を高め、コスト削減、在庫の最適化、リードタイム短縮、顧客満足度向上などを目指す取り組み
(3)価値創造プロセスの反映
自社の価値創造プロセスそのものをスキル化する方法があります。『課題発見→仮説構築→検証→価値創造』というサイクルを示し、これを経営スキルとして応用することが有効です。例えば、『課題構造化力』『検証型意思決定』『顧客価値創造デザイン』などは、“その企業の価値のつくり方”を反映したスキルになります。
(4)実践の場(PoC:実践共同体)との連動
「スキルマトリックス」はスキルを持っているか否かを示すだけでなく、『社内でそのスキルが育つ場』が存在して初めて機能します。DXコミュニティ・品質改善コミュニティ・若手次世代リーダーコミュニティなど、実際の学習共同体とリンクしたスキル項目こそが継続的な育成を実現するのです。これにより『スキル定義→学習の場→実践→改善』の循環を生み、人的資本投資の再現性を高める効果があります。
前述した通り、「スキルマトリックス」は単なる一覧表ではなく、企業戦略・事業特性・価値創造プロセス・PoCを結びつける『経営インフラ』です。これらの観点を踏まえて設計することで、自社らしい独自性と説明可能性が担保できます。
「スキルマトリックス」の作成ステップ
──「スキルマトリックス」を作成する際の基本的なステップを教えてください。特に、要件設定の段階で意識すべき点があれば具体的にお願いします。
「スキルマトリックス」の作成は単なるスキルの棚卸しではなく、経営戦略の実行力を高めるための『経営インフラ』を設計するプロセスであり、それには『体系的なステップ』と『明確な要件設定』が不可欠です。以下に基本ステップと、要件設定で特に意識すべき点を整理します。
(1)経営戦略・事業環境の整理
はじめに、中長期戦略・重点領域・事業環境の変化を踏まえ、『経営がどの能力を必要としているのか』を明確にします(例:DX、海外展開、脱炭素、新規事業、内部統制強化など)
<意識すべきポイント>
・スキル項目は経営戦略から逆算して設定する
・金融庁やガバナンスコードの外部要請も踏まえる
・「現時点で必要なスキル」と「将来必要になるスキル」を区別する
(2)必要スキルの分類・定義
一般的な分類(経営・財務・リスク・人的資本・DX・サステナビリティなど)に加えて、企業固有の価値創造プロセスや事業特性を反映した項目に落とし込みます。
<意識すべきポイント>
・抽象的なラベルではなく、企業固有の価値につながる項目にする
・スキル定義文を作成し、何ができれば保有とみなすかを明確にする
・業界固有スキル(薬事、品質、マネーロンダリング対策など)も整理する
(3)レベル設定(深度の明確化)
スキルを『有無』でなく『レベル』で示すことで、マトリックスの活用性が高まります(例:L1:理解レベル/概念を理解している、L2:実務経験レベル/一定の実務を遂行できる、L3:専門家レベル/意思決定・指導ができる)。より専門性の高いスキル判定をする際には、後輩・部下への指導力、意思決定の質、組織への波及効果などの観点で判定することが望ましいと考えます。なお、レベルの判定方法は単独ではなく複合判定を基本としてください。具体的には、上長+第三者(部門長・専門責任者など)で判定できるような設計が良いです。
<意識すべきポイント>
・レベルは『行動基準』や『意思決定の質』で定義する
・役割期待(取締役/執行役員/部門長)と整合させる
・評価制度や育成体系との連動性を確保する
(4)取締役・幹部への適用と可視化
定義したスキルカテゴリ×レベルを基に、取締役や幹部メンバーのスキルを可視化します。目的は『経営陣全体のバランスを把握すること』であり、個人評価を目的としたものではありません。
<意識すべきポイント>
・社外取締役の役割(独立性・監督力)を反映したスキルも設定する
・監査役には監督に必要な固有スキル(財務・リスク・内部統制など)を設定する
・経歴や専門性などの情報も併記し、説明力を高める
(5)活用設計(最重要ステップ)
「スキルマトリックス」は作成して終わりではなく、『運用されて初めて価値が生まれる』仕組みです。活用設計こそが、形骸化を防ぎ、自社らしい運用性を生む最重要ポイントです。
<活用の具体例>
・取締役会の構成見直し、社外取締役の選任方針への反映
・次世代リーダー育成・後継者計画(サクセッションプラン)との接続
・人的資本開示(人材戦略・DE&I指標)への反映
・PoC(実践共同体)と連動させ、スキル向上のための学習の場を制度化(例:DX PoC、品質PoC、営業PoC、マネジメントPoCなど)
<意識すべきポイント>
・スキル不足は“改善対象”ではなく“投資対象”として扱う
・PoCを整備し、『スキル定義→学習→実践→改善』の循環をつくる
・経営戦略の改訂に合わせ、マトリックスも定期的に更新する

「スキルマトリックス」開示のポイント
──投資家や外部関係者に納得感を持って受け止めてもらうためには、どのような形で「スキルマトリックス」を開示できると良いでしょうか?
「スキルマトリックス」を外部開示する際には、投資家や外部関係者が『この経営陣なら企業戦略を遂行できる』と納得できるだけの透明性と説明力を確保することが重要です。そのためには、単なる一覧表の提示ではなく、以下4点を明確に示すことが必要だと考えています。
(1)スキル選定理由の明示
スキル選定の理由を明示することで、スキル項目が『形式的ではなく戦略的』であることを伝える必要があります。例えば、海外事業・DX・サステナビリティなど一般的なスキルカテゴリであっても、自社の事業構造や中期経営計画と紐づけて選定理由を説明することで投資家にとっての納得度を高めることができます。
(2)スキル保有状況の意味付け
各スキルの“深度”を示す工夫も有効です。単なる○×表示ではなく、実務経験・専門性・意思決定への関与など、保有レベルに応じた表現を行うことで経営陣全体の能力構成をより立体的に理解してもらうことができます。
(3)不足領域の扱い
不足スキルや偏りについても隠さず開示し、『今後どのように補完するか』を示すようにしましょう。金融庁や東証も『ギャップの開示と改善方針の明示』を重視しており、透明性を確保することは企業価値向上にも直結するからです。また、不足領域を後継者育成や社外人材の登用計画と結びつけて説明することで、企業の成長意欲と実行力を示すことができます。
(4)実践共同体(PoC)・育成方針・取締役会の機能評価結果と組み合わせた提示
「スキルマトリックス」を単独で開示するのではなく、実践共同体(PoC)・育成方針・取締役会の機能評価結果と組み合わせて提示することで、『スキルがどのように組織内で循環し実践へ転換されているか』を示すことができます。これにより、「スキルマトリックス」が単なる開示書類ではなく、戦略実行力を支える経営インフラであることを外部に対して明確に伝えることが可能となります。
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編集後記
「スキルマトリックス」とだけ聞くと、個々のスキルや経験を一覧表として可視化することをイメージしていましたが、それ以外にも戦略的なインフラとして活用することが重要なテーマであることが理解できました。経営戦略との整合性や実践共同体との連携、透明性をもった外部開示の工夫を通じて、単なるスキル可視化を超えて企業競争力の持続的向上に寄与できるよう取り組んでいきたいものです。




