複業が広げる人事の可能性──多様な経験が生む組織変革と事業成長

人的資本経営の推進、グローバル化などに伴い、人事には事業成長のドライバーとしての役割が一層求められるようになっています。こうした中で、人事部門と事業部門の垣根を超えた対話や協働が非常に重要になる一方、両者の間には依然として距離がある企業も多いのが現状です。
まさにその架け橋となる存在として、組織を牽引してきたのが三井化学株式会社グローバル人材部部長の小野 真吾さんです。小野さんは事業部でグローバルビジネスを展開する中で感じた危機感から人事部門への転身を決意。以来、M&A対応やグローバル人材戦略の策定など、様々な観点から組織変革をリードしています。
さらに小野さんは、2008年から複業として大学での講演や他企業の人事コンサルティングも手がけています。今回は、事業、人事、そして複業という多様な経験を通じて見えてきた、複業とこれからの人事のあり方についてお話を伺いました。
<プロフィール>
小野 真吾(おの しんご)/三井化学株式会社 グローバル人材部 部長
2000年に新卒入社後、ICT関連事業の海外営業・マーケティング・プロダクトマネジャーを経験後、人事に異動。労政、採用責任者、国内外M&A人事責任者、HRBPなどを経験後、グローバルでのタレントマネジメント、後継者計画の立案・実施を推進。2021年4月より現職。
目次
日本企業の組織や人材育成に危機感を覚え、事業視点から人事を見つめ直すことに
──小野さんは、入社当初、事業部でキャリアを積まれていたと伺いました。そのような中で人事部門に関心を持たれたきっかけについてお聞かせください。何が転機となったのでしょうか。
当時、私は事業部でグローバルビジネスに携わっていました。特に半導体や液晶関連のお客様との取引が中心で、韓国、台湾、アメリカの企業と接する機会が多くありました。もちろん日本企業とも取引がある中で、海外企業と日本企業の組織における明らかな違いを感じることが増えていきました。
まず驚いたのは、意思決定のスピードです。日本企業は『他社がしているなら自社も』という横並び意識が強いため、持ち帰って検討することが多くなります。一方、海外企業は決裁者の意思で、その場でも大規模な投資判断も下してしまう。その結果、他社に先んじてビジネスをリードしていくことが可能になっているのです。
また、スピーディーな意思決定の背景にあるリーダーシップの違いも印象的でした。例えばアメリカのIT企業の幹部は、合理的なビジネストレーニングによって鍛えられた結果、常日頃からロジカルに意思決定できるだけのリーダーシップを持っている方が多いと感じましたし、その発言や振る舞いに説得力がありました。
一方、日本企業の場合は自分自身がロジカルに考えて「これをすべきだ」と意思をもって行動するというよりも、社内の飲み会や非言語なコミュニケーションの中で時間をかけて予定調和で決めていく、人に追随していくといったパターンが多く、なかなかリーダーシップを発揮してビジネスをよくしていくという方に出会うことが少ない実情でした。
──そこから人事という選択に至ったのは、なぜだったのでしょうか。
このままでは日本企業は追い抜かれる、あるいは突き離されてしまうという危機感を強く感じました。これは半導体産業に限った話ではなく、同じ製造業である化学産業についても同様です。海外企業は非常に強いコミットメントで事業を進める一方で、日本企業は少しのんびりしている。この差を事業の最前線で感じたことが、大きなきっかけになりました。
当時は「戦略人事」といった言葉もなかったですし、人事は制度・管理系の部門と言われ、事業に寄り添ったり、事業の観点から最適な人の配置をしたりすることを重視されていませんでした。この状況を何とかしなければ、会社の発展はないのではないか。そう考えて人事への転身を決意しました。
──その決断は、当時としては珍しいキャリアパスだったのでしょうか。
そうですね。当時は人事に行きたいという人はほとんどいませんでした。上司に「人事に行きたい」と相談したとき、「なぜ人事に行きたいんだ。コーポレートに行きたいなら、経営企画に連れていくこともできるぞ」と言われましたね。でも私は、経営企画ではなく、人事部門で組織を根本から変えていきたいという思いを持っていたのです。
組織変革の第一歩になったのは、事業部に行って雑談することだった

──人事部門に移られて、最初にどのような印象を持たれましたか。
移った瞬間は、正直なところ「平和な部署だな」という印象でした。ただし、それは仕事をしていないという意味ではありません。人事部の皆さんは本当に真面目に一生懸命、仕事をされていました。
しかし、その方向性は、事業の現場から来た私の目には「これは本当に社員のためになっているのか」「この取り組みにはどんな利益貢献があるのか」といった疑問を感じるものばかりでした。人事の会議や合宿でも、行われている議論の本質的な意味や目的がよくわからないので、質問を投げかけ続けていました。
そうしたら、宇宙人が来たみたいな反応をされて(笑)。最初のうちは部門でも浮いていたと思います。ただ、当時リーマンショックなどの影響を受けて経済情勢が厳しくなる中で、自社も事業の再生や成長に本気でコミットしなければいけない状況になってきて、経営の三要素であるヒト・モノ・カネはすべて、事業成長のためにあるということに組織全体が気づきました。その結果、人事は、事業成長を見据え、事業戦略と連動した組織変革を行う必要があるという意識が浸透していくようになりました。
──そこから、どのような変革を進められたのでしょうか。
私は人事部に配属された初期の頃から、ふらっと事業部の席に行って空いている席に座り、社員の方々と雑談することをしていました。当時は人事部の人間が事業部に来ると「何しに来たんだ」と構えられることが多かったのですが、その雰囲気を変えたいと思っていたのです。
人事部に配属されて2〜3年目頃から、徐々に事業系のプロジェクトに入り始めて、実際に現場で人・組織を扱うようになりました。制度だけでは会社は変えられません。経営戦略、事業戦略、事業の成長につながることとは何かを考えるのが大前提にあるべきだと考えました。
また、変革を進めるなら、その旗振り役となる人事自身が誰よりも自分ごと化して行う必要があるとも考えました。社内に対してリーダーシップを語るなら、人事自身のリーダーシップを振り返る、公平性を語るなら、人事の公平性はどうなのかに向き合う。これらのことを意識するだけで、人事がインパクトを与えられる範囲は格段に増えるのです。
事業成長への意識があったからこそ、採用の責任者としての取りうるオプションも、これまでの新卒採用中心から、中途採用へと広げたり、外資系出身者やハイクラス人材の確保も積極的に行ったりとルールを作り変えてきました。また、M&Aにも入り込んでいくことで、人事として働いて5年目頃からは、経営と人事の関係性を強化することもできてきました。自らリーダーシップを持とうとすれば、いくらでもできることがあると実感したのです。
──組織全体の変革に向けて、特に印象に残っている取り組みはありますか。
社内で「ハラグロ会」という本音を話す会を計17回行いました。有志が部内の不満や課題を全て出し切る会として、ケータリングを用意して、居酒屋で愚痴を言い合うような雰囲気で、数時間話し合う。事業部側からのインプットが入った状態で、他社事例や人事のセオリーを学びながら課題に向き合うと、新しい解決策が見えてきます。それを個々の領域だけでなく、人事機能全体でつないでみると何ができるのか。
そんな議論を重ねて、ようやく目指すべき姿が見えてきたのです。将来の経営者リーダーをどう作るか、不適切なリーダーどう変えるかなどを基軸に置きながらグローバル企業の枠組みやリーダーシップ育成の枠組みを組織としてインストールしていくことで、変化が始まりました。
──そのような変革プロセスを経て、小野さんは現在、グローバル人材部でどのような役割を担っているのでしょうか。
グローバル人材部は、グローバルなCoE機能を担い、三井化学グループ2万人に共通する人事施策を策定・展開する役割を持っています。タレントマネジメントと後継者計画、リーダーシップ開発、研修プログラム、アセスメントの設計、エンゲージメント、組織開発などを実施し、その運用改善、KPI設定など、グローバルのポリシーをつくり、グループ会社に入れていくことが大きな仕事です。またデータドリブンにシフトするため、グローバル人事システムを導入して人材分析を行う人事組織へと変革を進めています。
加えて、各事業部に置いているHRBPのうち、成長領域や新事業領域については、私が直接見るようにしています。具体的にはM&Aや海外進出などです。これらの領域はCoE機能を用いたサポートをしながら、HRBPとしてどっぷり入ることもあります。
人とのつながりで広がっていた「複業」

──組織変革を進める中で、複業を始められた背景についてお聞かせください。
実は新卒で入社したとき、5年くらいで辞めようと思っていたのです。結果として25年間サラリーマンを続けていますが(笑)。ただ、「いろいろなことをやってみたい」という思いは常にありました。
複業のきっかけは、妻が自宅で英語塾をすると言い出したことです。私が代表となって経理や決算書の作成、契約書作成、チラシ配りなどのサポートをすることになりました。
──そこから活動の幅を広げていかれたわけですね。
そうですね。ご縁があれば、大学で講演をしたり、セミナーをしたり、他社で人事のコンサルティングをやってみたり、コミュニティ運営をしてみたり。そういった活動を少しずつ広げていきました。
ただし、これは「将来このようになりたいから複業をしよう」というような戦略的なものでは全くありませんでした。基本的には、好きなことを好きな人たちと、何か貢献できることがあればやってみる、という考えです。複業の時間を使ってまで嫌なことをやる必要はないですからね。
ただ、複業を通じて社会関係資本を広げていく過程で、あえて本業でやっていない領域や、自社ではつながらないような人たちとの関係を作っていくようにはしていました。そうすることで、少しずつ「できること」が広がっていき、それが本業や、他の複業にも活かせるようになっていき、さらに「できること」が広がっていきました。
その積み重ねで、連鎖的に取り組みが増えていきました。例えば、大学のゲスト講師として登壇したときに、生徒としてMBAを受講している方々と出会い、そこから様々な会社とのつながりを得ました。スタートアップとかかわるようになり、VCやCVCとのつながりも生まれ、HR系の取り組みが始まりました。そこからメディアに呼ばれたり、省庁に呼ばれたりするようになって、今に至ります。社会関係資本を自然と広げていくためには、「自分で勝手に閉じない」ことだけが大事なのだと思います。
人事個人のキャリア自律が、社会への価値貢献にもつながる

──これから人事領域でも複業が広がっていくと考えられる中、複業により人事のキャリアはどのように変化していくとお考えでしょうか。
まず、世の中が複業に対して寛容になり、むしろ推進する方向に向かっている中で、おそらく「会社」という一つの塊が、外との境界線が緩やかに薄れていくと思います。
そのような中で将来的には、スキルを兼ね備え、職場、知人などのネットワークを持ち、自己の価値提供の対価として報酬を得ることができる「ビジネス資本」「社会関係資本」「経済資本」を全て兼ね備えた、エッジの効いた人たちのネットワークが価値を創造し、大企業はそれを受託することで、大企業の資本を有効活用してもらうというような関係になるのではないかと思います。
その中でも人事のスキルは、どの企業でも、官庁でも、NPOでも、人・組織を扱うという普遍的なものです。プロフェッショナル性を持って自分を高めていければ、多くの組織で垣根を超えて接点を持ち、価値発揮できるのではないかと思います。
──人事に求められるスキルセットも変わってきそうですね。
自分の専門性や強みをとことん突き詰めることは大事ですが、それを自分の所属する組織だけで限定的に考えるのではなく、日々の仕事を通じて広げながら試していくことがより重要ですね。そうすることで、自分には違う強みがあるかもしれないと気付ける。すると、「次はこんなことをしたらもっと広げていけるかもしれない」という可能性が見えてきます。
そうなればキャリアパスは一つではないことが実感としてわかるので、自分なりの生き方を自分で決めていく人がより増えていく。複業は、その大きなきっかけになりうるものです。
また、サラリーマンをしていると、自分でお金をいただくということに慣れていません。でも5,000円でも1万円でも自分で稼ぐ経験をすると、それが自分の価値のように感じます。
それが増えていけば、経済的な不安が少なくなり、今の会社に依存しなくなります。これは個人のキャリアとしても充実していきますし、会社との向き合い方も変わってきます。会社にしがみつく意識ではなく、自分のパーパスや目標を持って、リーダーシップを持った振る舞いができるようになっていく。それは会社にとっても価値をもたらす良いことだと思います。
──最後に、これから複業に挑戦したいと考えている人事の方々へメッセージをお願いします。
人事が信じていないことは、組織に浸透できません。そういった信じられるものを増やすために、人事の皆さんにまず複業を通じて色々な経験してほしいと思います。最初から人事コンサルティングのような、大きなことをする必要はありません。対価をいただかない、プロボノや町内会でも、まずは今いるコミュニティと違うところに一歩踏み出してみる。そのことに意味があるのです。
編集後記
「人が変われる可能性を信じ、エンパワーメントし続けたい」。この言葉に、小野さんの強い意志を感じ、印象に残りました。小野さんのこれまでの歩みは、日本企業「人事」というものの役割の変化そのものを表しているのではないでしょうか。制度や仕組みではなく、人と組織の本質的な変化にこだわり続けてきた姿勢は、これからの人事が持つべき重要な視点を示唆していると同時に、従来の「企業人事」の枠を超えた、新しいプロフェッショナルのあり方、そして組織と個人のこれからの関係性が見えてくるように感じました。